「おいおい大丈夫か? もう手遅れだったのに、爺ちゃん婆ちゃんに説き伏せられて手術して、やっぱり駄目だったけどそれでもってイタチごっこ続けて。それが悲惨過ぎるってんで、あの親父が、二度目の駆け落ちに踏み切ったんじゃないか。おかげであの人、未だにこの家の敷居を跨げないんだぞ。大和撫子を畳の上で死なせてもやれなかった馬の骨って、どんだけ爺ちゃん怒り狂ってたか」
「うーん。やたらハウスキーパーしか家の中にいないなーって思った時期はあった気がする」
「他人事だな。おい」
「がきんちょのオツムにゃ、あっちもこっちも大変だったって印象が強過ぎたんだろうさ。ハウスキーパーは初めて見る日本人の子どもを腫れ物に触る扱いだったし、圭一さんもやることだらけでノイローゼ気味だったし。いつの間にか、ゆゆは日本送りにされてるし。俺は俺で……まあ、ちゃんと勉強できるだけ、ありがたいなーと」
「なんじゃそりゃ」
完全に引き腰になって、桜獅郎が嘆息する。
「そりゃま、勉強好きだからこそ医者なんかやりたいんだろうけど」
その勘違いを、麻祈は正そうとも思えなかった。兄は兄らしい尺度の正しさに準じている。字の読み書きが出来ないからガス管と水道管を溶接しても気付かない、自らの人件費を安く買い叩かれたところで算数が出来ないから騙される、歴史を知らないから言われるまま殺し合う、あのぞっとしない連鎖を知らない兄は、日本国のシステムがいかに恵まれた貴重なものか分からないのだ。本当に豊かな国だと思う。
麻祈は、目を閉じた。そのまま、栓のないことを駄弁る……
「俺、特に、数学が面白くてさ。よく、世界で最も理解される芸術は音楽だって言われるけど、俺は世界で最も理解される学問は数字だと思う。一本指をイチと数えられない人間はいないし、イチ足すイチがニになると数えられない人間もいない。それが人によって、Oneだったり、壱だったり、並べた小石だったりするだけで、みんな根っこは同じ……最先端では、数式は星を掴んで時空を渡っているのに。これって凄くない?」
「凄くはないかな」
「え?」
「俺たちみたいなだけじゃないか。それ。―――俺と、お前と、羽歩だよ」
目を開けて顧みたはずなのに、兄が見えない。なにも見えない……
麻祈はぼんやりと、それを聞く。
「圭一・蜜穂夫妻ってルーツは、きょうだいみんな同じなのに。俺はいつだってここにいる。羽歩は、身体はここにいても、きっといつだって、あちらにいた。お前は―――どこにいるんだろう? 俺には分からない。麻祈。どこにいようが、俺には分からない―――」
なぜだろう。声までも、今は遠い。
だからだろう。正直に、麻祈はそれを言えた。
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