.無意味に、壁の手すりに指をかけながら進む。このまま院内二階を直進すると、購買を横切ったところで、壁内の蛇腹階段に繋がる。そのまま三階に向かうと、いずれは図書室に辿り着く。その壁一枚お隣が医局なのも知っているし、もっと行けば袋小路にトイレがあることまで熟知している。どれにもこれにも用はないのだから、癖になっている早足を宥めるには、手すりとの摩擦でブレーキをかけておく程度で丁度いい。
指紋による摩擦は静摩擦だ。学問領域としてはトライボロジーの領域だが、まことしやかに院内を席巻する忌まわしい風聞が帯びた熱量を摩擦熱と仮想したところで、公式から値を導き出すのは困難だろう。むしろクラウゼヴィッツの摩擦として考える方が、しっくりくるかもしれない。その可能性を考えてみる。立案した計画を実行するに伴い、障害どころか脅威へと化けてしまう対内・対外・環境的な摩擦―――
(だぁから。俺が・俺以外の連中と・病院って組織に勤めてるだけのことだろーがよ。うぜー。いらんことまで連覇してく俺のシナプスうぜー)
苦虫を噛み潰した心地に、麻祈は歩行を諦めた。歩いていてさえ、これだ。歩かなかったところで変わらないだろう。しかめてしまっていた顔を力任せに解(ほぐ)す一環として、ぐるりと目玉を巡らせて―――
偶然にもここは、立ち止まるのに適した場所だった。その事実を発見して、本格的に顔を横向かせる。掴んでいた手すりから指を剥がして、麻祈はふらふらと廊下の反対側へ移動した。
一階エントランスへと降りていくエスカレーター、そのすぐわきで立ち止まる。
そよ風の威力を倍加して受けた癖っ毛が、容赦なく耳たぶをくすぐってくる。小指でそこらへんを掻きながら、胸下丈の柵に凭れて、麻祈は階下を見渡した。
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