.無意味に、壁の手すりに指をかけながら進む。このまま院内二階を直進すると、購買を横切ったところで、壁内の蛇腹階段に繋がる。そのまま三階に向かうと、いずれは図書室に辿り着く。その壁一枚お隣が医局なのも知っているし、もっと行けば袋小路にトイレがあることまで熟知している。どれにもこれにも用はないのだから、癖になっている早足を宥めるには、手すりとの摩擦でブレーキをかけておく程度で丁度いい。
指紋による摩擦は静摩擦だ。学問領域としてはトライボロジーの領域だが、まことしやかに院内を席巻する忌まわしい風聞が帯びた熱量を摩擦熱と仮想したところで、公式から値を導き出すのは困難だろう。むしろクラウゼヴィッツの摩擦として考える方が、しっくりくるかもしれない。その可能性を考えてみる。立案した計画を実行するに伴い、障害どころか脅威へと化けてしまう対内・対外・環境的な摩擦―――
(だぁから。俺が・俺以外の連中と・病院って組織に勤めてるだけのことだろーがよ。うぜー。いらんことまで連覇してく俺のシナプスうぜー)
苦虫を噛み潰した心地に、麻祈は歩行を諦めた。歩いていてさえ、これだ。歩かなかったところで変わらないだろう。しかめてしまっていた顔を力任せに解(ほぐ)す一環として、ぐるりと目玉を巡らせて―――
偶然にもここは、立ち止まるのに適した場所だった。その事実を発見して、本格的に顔を横向かせる。掴んでいた手すりから指を剥がして、麻祈はふらふらと廊下の反対側へ移動した。
一階エントランスへと降りていくエスカレーター、そのすぐわきで立ち止まる。
そよ風の威力を倍加して受けた癖っ毛が、容赦なく耳たぶをくすぐってくる。小指でそこらへんを掻きながら、胸下丈の柵に凭れて、麻祈は階下を見渡した。
広い。火急の際にはソファを退かせて急患の大群をトリアージするのに使用するエントランスは吹き抜けで、しかも天井の一部は採光窓となっているので見晴らしがよく、総合受付の混雑具合から中年男の頭の焼け野原加減まで丸見えである。正午も跨ぐというのに、未だに老若男女が縦横無尽にごった返しを繰り返している。今日も今日とて、我らが白き巨塔は大入り御礼のようだ。職員総数およそ千名、受け入れ患者数は四捨五入して常時四ケタ、標榜診療科は二十に上り、公から受けた指定も十五を下らず、三次救急医療まで担っている……結果、こうして薬袋ひとつ手渡すのに一時間二時間としたくもないうたた寝を患者家族へ強制し、そのたむろに紛れての無宿人・置き引き犯の出入りを許すしかない環境を醸成してしまっているわけだ。それが良いのか悪いのか分からない。現に院内設置の目安箱には、良い感想も、悪い感想も、感想とは言い難いクダまで寄せられてくる(らしい。とりあえず、新聞はいいから週間万年ジャンク(少年漫画雑誌)を待合室に置いてくれと言う投書は握りつぶしたとは聞いた。副院長から。自分で買え)。
(目安箱、かあ)
麻祈は、硝子と金属仕立ての柵の上で、両肘を組みかえた。頬杖をついて、それを思い出す。
もう月単位近く前の話になる。恐らく段医師だと目される病院職員の性的嗜好とその悪行について怪文書が投函されたのは。
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