. 局所にタオルを巻く余力も無かった。とにかくこの棺桶の蓋向こうにある健やかな空気を吸いたくて、麻祈は壁際に蹲ったままドアを開けた。無人のはずの廊下に佐藤がいた。偶然だった。彼女は、地下の職員食堂の自販機にしか置いていないクリーミィ甘酒(きなこ餅入り)とかいう缶飲料を買いに通りすがっただけらしい。後日、そう聞いた。
彼女の鳩が豆鉄砲を食らったような面構えは、赤らめられることも顰められることもなく有能な女医へと変貌を遂げ、急患を診察した。だけで終わってくれたら良かったのにと思う。それを思う。本心からかは、自分にも分からないけれど。この世話焼き、という佐藤への決まり文句は、確かにこの時しばらくしてから始まってしまったのだから。
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あれから、随分と経った。
それなのに、どの電信柱も変わらない。その白熱した光も。それを幾つも佐藤と並んでくぐっては、幾つもの言葉で自分との婚姻を提案した過去さえも。
吐き捨てる。
「めんどくさ。俺」
そして、麻祈は歩き出した。それきり、前を向く。問題は解決されるべきだし、そうして片付けていかねばならないのだけれど、いちいち癪に障る露悪癖こそ段麻祈たる習性であることくらい口癖もろとも知悉している以上、問題なんて上等扱いはおこがましい以外のなんでもない。と、―――そう思えたから。その時も。
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