. 麻祈は、佐藤から少しでも距離をとるべく後ろへと躄(いざ)っていた。その物音も、確かに立ったのだが。彼女は、麻祈のうわ言を聞き逃さなかった。更には、怖気づかなかった。
「はあ? あんた麻祈でしょ。なら見るよ」
「だ、から。そんなの、―――」
「んげ。本気でどうかなった? どうもしてないって言い張るんなら、それを自覚して誤魔化すしかないくらい、どうかしちゃうよーな熱でもあんの?」
「ぅあ」
額へと伸びてきた彼女の手から、上体を屈めて逃げる。追ってきた。逃げ切れない。その指先を払いのける。
佐藤のそれと衝突させてしまった己の片手を、もう一方の手で胸倉に抱きこんで。麻祈は絶句した。喘ぐ。
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「あ……ちが、」
「違ってても合っててもいーから。そんなの。んで、どうなの? 涼しい?」
言われ―――
麻祈は、自制心が芽吹くのを感じた。伸びていく枝葉を追走するように、支配を取り戻していく。引っ込めた手を膝に戻した佐藤は、常の如く暢気(のんき)な平常心で彼を見詰めていた。その不動の眼差しに目を合わせると、それを取っ掛かりに、眼球の輻輳も減退していく。やがて動悸の激しさが引き、乱れていた呼吸も取り戻せた。
狼狽を失ってしまった以上、麻祈は素で返答するしかなかった。
「……涼しいかも」
「ならいいじゃん」
「……いいかも」
脱いで太腿にほったらかしていたシャツを、隣の空席に置く。数学学会の抄録集が隠れた。構わなかった。
そしてしばらく、愚にもつかないことを、佐藤と喋った。
[1回]
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