「とにかく、自前の記憶だけをお互い言い合ってるだけじゃ水掛け論だってポイントは、華蘭サイドも納得してくれた。ふたりとも、面と向かって話し合うのに異存はないってさ。あの野郎にも連絡して、今、ちゃんと腹を割って話し合える場のセッティングを進めてる。あたしと紫乃・華蘭と女友達・あいつの計五人で、妥当な会場の目星もつけた。あと日取りなんだけど、駄目な日時あったら教えて」
教えることもなかったので。
喋りすらしなかった唇は消しゴムのままで、そこから吸って吐く日常にすら、血の気を感じられずにいる。
ずっと。ずうっと。昨日も。今日も。今、この時だって。
今日の午後が、指定された時間だということも。今日の正午から外出する準備をし出したことも、正午過ぎには準備を終えたことも。どれもこれも、実感が無い。
肌の下にも上にも温度を感じないのに、汗をかいている。その感触は分かるが、実感が無い。
夏じみた陽光に日傘を差して、その影だまりを踏んでいく足が見えても、向かっている先に約束した喫茶店があるなんて、どうしても思えない。
喫茶店で、待っているのが―――
「やっほー紫乃。こんちは」
葦呼だということくらいは、知っていたはずなのに。
紫乃の歩は、止まった。呆然と、立ち尽くした。
小ぢんまりとした喫茶店の、軒先。葦呼は、こちらに片手を挙げて立っている。その立ち居振る舞いは、今しがたの声と同様、紫乃への明快な挨拶だ。
それを勘違いする材料はない。古びた一軒家のついで、と言った風の喫茶店の前には自分たち以外ひとっこ一人いないし、喫茶店と歩道を垣するように横隊した十個ばかりのモミの木の鉢のどれだって、葦呼と間違う要素はない……両者の背丈だけは似通っているが、挙手ついでに背伸びしていた葦呼が踵を地面に戻すと、差は歴然と開いた。葦呼は小柄だ。今日だって。
ゆっくりと歩み寄るうちに、鼻から声が抜けた。
「こ、―――んにち、わ」
「なーんか、ナマで逢うの結構久しぶりだと思うんだけど、連日連夜連絡してたから、あんましレア感ないよねぇ。勿体ないのか贅沢なのか、よく分かんないや」
手前から、葦呼は取りとめもないことを言ってくる。
なんとなく立ち止まってしまった自分が返せる言葉と言えば、こうだ。
「そう、だね。うん」
「てことはレアどころかミディアムでもウェルダンでもありってことになっちゃうから、ステーキ屋からしたら頭の痛い注文だよね。よかったあ、あたしらステーキの注文じゃなくて人間で。ステーキ屋が一軒、気苦労から救われたよ」
いつものように独自路線で一件落着した葦呼を、またしても紫乃は見詰める。
ふわんとボブにした茶色の髪も、動きやすさ重視のラフなパンツルックが黄緑色主体であることも、直射日光に射られた彼女のそういった色彩全部が白っぽく薄まっているのも、眩しく暑苦しい日差しに目と口をへの字にしているのも、とても彼女らしい。紫乃と違って、こんな時まで。
「蒸すねぇ。中に入ろっか。エアコン効いてないけど、日陰なだけマシだから。ぬるめレベルがアンニュイちっくなお茶も用意しといたよ。ぬるめってのはホントにぬるめって温度なだけで、ぬるぬるめじゃないから安心して―――」
「あの。葦呼」
喫茶店のドアに手をかけた友の背中に、紫乃は声を掛けていた。
振り向かれるとは思っていた。
「およ?」
その通りだった。葦呼が声を上げると共に、片足を支柱にして、くるんとこちらに向き直る。
「どしたの?」
そうやって、訊き返されるとも思っていた。のだが。
こたえることが、出来ない。
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