。紫乃は、お辞儀したまま、目をぱちくりさせた。
 たったそれだけの戸惑いさえ彼にはなく、上から声が続く。
「もったいないなら、そのまま家の人に使ってもらって」
「あ」
 紫乃は、顔を上げた。
 そういった変化さえ、彼にはない。眉と目尻の角度だけが、微苦笑にほだされて鈍角に傾いだ。
「別に、カシパクられたって佐藤に吹聴したりしやしませんよ」
(かしぱくられた―――借りパクされた?)
「それじゃ、お元気で。おやすみなさい」
 そんな食い違った感覚さえ、紫乃にしかなかったようで。
 言い終えた彼の顔がフロントガラスに向いた。それに続いて、手の先もハンドルを握る。アイドリングから再稼働したエンジン音と排気が息巻いて、寝静まっていた夜気をどよめかせた。そんな余震だけでなく、実際に車が動き出す……ゆるりと、前に。いつの間に開閉スイッチを切り替えたのか、パワーウィンドウが閉じられようとしていた。締め出される。
あの中にいたのに、自分は履いている彼のサンダルごと、あそこから締め出されてしまったのだ。
(わたし、なんか、)
 わたし、が。わたしじゃ。わたし。わたし。わたし。
 ―――あんたいつまで、わたしだけでいるつもり?
(この期に、……及んで―――!)
 かっと、頬が上気した。                                                                    
                                            
                                                                            
                 [0回]
[0回]