。紫乃は、お辞儀したまま、目をぱちくりさせた。
たったそれだけの戸惑いさえ彼にはなく、上から声が続く。
「もったいないなら、そのまま家の人に使ってもらって」
「あ」
紫乃は、顔を上げた。
そういった変化さえ、彼にはない。眉と目尻の角度だけが、微苦笑にほだされて鈍角に傾いだ。
「別に、カシパクられたって佐藤に吹聴したりしやしませんよ」
(かしぱくられた―――借りパクされた?)
「それじゃ、お元気で。おやすみなさい」
そんな食い違った感覚さえ、紫乃にしかなかったようで。
言い終えた彼の顔がフロントガラスに向いた。それに続いて、手の先もハンドルを握る。アイドリングから再稼働したエンジン音と排気が息巻いて、寝静まっていた夜気をどよめかせた。そんな余震だけでなく、実際に車が動き出す……ゆるりと、前に。いつの間に開閉スイッチを切り替えたのか、パワーウィンドウが閉じられようとしていた。締め出される。
あの中にいたのに、自分は履いている彼のサンダルごと、あそこから締め出されてしまったのだ。
(わたし、なんか、)
わたし、が。わたしじゃ。わたし。わたし。わたし。
―――あんたいつまで、わたしだけでいるつもり?
(この期に、……及んで―――!)
かっと、頬が上気した。
葦呼に後ろ指を差された気がしたがゆえの恥だった。誰よりも劣る己を疑わず、甘やかすことに慣れ切っている自分への怒りでもあった。そしてなによりも―――麻祈に、呼びかけるため、力んだ。
声を、届ける。
「捨てません! 返します!」
今は、声だけで精一杯だとしても。
いつか、その日に、
「―――返しに、行きます!!」
乗用車は、角を曲がって視界から去った。
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