.それを拝むしかない。張子の虎のようにぺこぺこ礼をして、彼が元通りにベッドの上に座るまでを見送る。とは言え、そもそもが広くもない八畳間なので、身体を反した程度の距離でしかないが。
それでも、呼吸のしやすさは段違いだ。まさか呼気に血臭が漂うほどの熱傷を負ったとは紫乃とて思っていないが、それでもだ。
と。
「お姉さん」
「―――え?」
突拍子のない話題に、呆けてしまう。
紫乃が喋れたことに安堵したらしい麻祈は、紫乃の反応と己の食い違いまでは気が回らなかったらしい。そのまま言ってくる。
「早く、来てくれたらいいですね。お姉さん。あれ? 確か、お迎えはお姉さんじゃありませんでしたっけ? 合コンの時のそれ」
「―――あ!」
つまり彼は、自分が茶を淹れている間に、合コンの時と同じように紫乃が携帯電話で連絡をつけ終わったと踏んでいるのだ。それもそうだろう。思い返せば、彼は雨で濡れた身体を乾かしていくようにとの意図で、紫乃をここへ招き入れたのだ。まさかまた雨が降るかもしれないのに、自動車での迎えを呼ばずにいたなんて、考えてもみないはずだ。
考えてもみないのだから。まさか、彼が茶を淹れている間、紫乃がどうしてしまっていたのかなんて、絶対に麻祈にはバレたりしないだろうけれども。
けれども紫乃は、彼の思い込みに従った。それはもう従順に、こくこくと頷いた。
「はい、そうですね。すいません!」
「あの。さっきから、そんなに謝らなくても。なにも悪いことしてないでしょう?」
(しています。それはもうしてるんです)
コーヒーカップはテーブルに置き去りにして、背中の裏に置いていたハンドバッグから携帯電話を手探りしながら、心の中で懺悔する。
―――友人の絵葉書から、この住所を特定しました。
―――大型書店の軒先では、ただただ会話を続けていたいばかりに、その障害となるだろう実態の数々を隠蔽しました。
―――貸された傘を無駄にした挙句、こうして家に上げてもらっています。
―――上げてもらってからは、……なんだかもう目まぐるしすぎて、これっぽっちも呑み込めそうにありません。
(やばい……やばいよ。今までのわたし、ほんとやばい……)
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