.麻祈は、こちらに背を向けたまま、てきぱきと外出する身支度を整えていく。ベッドから取り上げたボディ・バッグを肩に引っ掛けて、腕時計も手首に巻いた。腰のキーチェーンに軽く触れて、銀の鎖を確かめる。そして、紫乃へと向き直ってきた。
控えめな謝罪を物語るように眉を下げながら、どこかものさみしげに口許だけ綻ばせて。己の至らなさを詫びる陰影を、ほの暗い部屋の中だからこそ、露骨にさせてしまいながら。
「男として、俺が、女性をこんなむさくるしいところに長居させるなんて出来ないだけです。医師としても、雨に降られたままの状態は見過ごせません。それにお互い、社会人として、明日も仕事がある身でしょう? どれをとっても、早く帰宅して休むにこしたことはありませんって。ね? どうか俺の我が儘を聞いてもらえないですか? 坂田さん」
我が儘。彼が言う、我が儘。
紫乃が彼に仕出かした数々の我が儘を知らずにいる彼だから、そんなことが言える。
そのままでいてほしかった。
狡(こす)い自分にうな垂れて、紫乃は恥じ入るしかなかった。
「なにからなにまで……お世話になります……」
「とんでもない」
麻祈が、廊下に出て行く。遅れて、ついていくしかない。
室内の電気を消して、ショルダーバックを肩に、とぼとぼと玄関まで歩いていく。すると、紫乃のパンプスが無かった。ちっちゃな水溜りが名残としてあるだけだ。かわりに、先程と同じスニーカーでたたきに立った麻祈が、ビニール袋を提げている。
「はい」
言いながら、彼はビニール袋をこちらに差し出してきた。わけが分からないでいると、
「坂田さんの靴。持って帰らないと」
「え? あ」
「まさか、乾かした足をまたこの靴に突っ込んで、お帰りになるおつもりで?」
「いえ。その、」
「とりあえず今は、代替えで、俺のサンダルを使うってことで。サイズは合わないでしょうけど、またぐしょぬれになるよりいいし」
紫乃に袋を受け渡すと、麻祈は返す手で下駄箱からサンダルを取り出した。まだ新しい、スリッパタイプのゴム製だ。そして、それを紫乃の水の足跡の上に置いた。そうだ―――彼はそうやって、ひとつひとつ淡々と片付けていく。いくのだけれど。
(……ちょっとくらい、手間取ってくれたっていいのに……)
と。
「……重ね重ね申しますが、俺、ほんとに感染性の持病は、」
「そうじゃないんです」
「はい?」
麻祈の声が高くなった。紫乃が急に、ぶすっとした言い方をしたからだろう。察しはしたが、どうしても直す気にはなれなかった。
「―――失礼します」
言ってから、サンダルへ履き替える。
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