「捨てません! 返します―――返しに、行きます!」
その声が届いたのは、アクセルとほぼ同時にいじったパワーウィンドウが、自動で閉まり切る直前だった。聞き終える頃には返事もできず、そのまま道なりに車を進めていく。
来た道を遡ることは諦めていた。ちんたらと操車しながら、そのうち幹線道路に出ることを祈る。スピードを上げるのはそれからでいい。日本には、無駄なまでに懇切丁寧―――とどのつまりは慇懃無礼―――な道路標識や青看板がごまんとあるのだから、アパートメントまで帰りつけないなんてことは在り得ない。どうせ今から慌てたところで帰宅時間が一時間も早まるわけでなし、慌てたせいで苛つきを引きずって寝付く時刻が一時間もズレ込んだりした方が損だ。
そんな悠長な気構えだったからか。つらつらと、坂田のことを考えたのは。
(捨てていいっつってんのに……サンダルなんて、絶対に無いと駄目だってもんでもなし。また買えばいいんだし。坂田さんが履き物をとっかえひっかえしてお礼をリターンする時間も節約できたし)
それだけだ。
それだけのことを、それだけにしてくれそうもないのだ。坂田は。
(米焼酎の時みたく、佐藤から返されてくんのかなぁ……まぁ、それなら、それでいいや。思い出すまで、忘れとこ)
麻祈は、こうして今日のことを忘れた。
もろとも、ジェイデクバ・アーウレンを巡る図書館行脚予定を―――ならびにそのマニアックな通称がジェイヤーでないことも―――彼は忘れてしまうのだが、そちらについては、以降も取るに足りない出来事である。思い出すこともない。
そう。そちらについては。
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