「……―――」
念のため、もう一度髪の毛に手櫛を一巡させてから、取り出したあぶらとり紙で要所要所の難敵を駆逐する。カゴバッグに丁寧に紙袋を収めて、肩に掛けてから、出来てしまっていた服の皺を払った。
そして、三〇三号室へ。たった数メートル廊下を歩いただけなのに、階段を駆け上がるよりも動悸がする。寄り上がる緊張に、目の奥が痛くなってくる。喉だってカラカラだ。ああいけない、このままだと折角の口紅が乾いてしまう―――
(―――……ああもう!)
噛み痕が付かないように下唇の内側を噛んで、紫乃は意を決した。そのドアの、インターホンを押す。
さっと引っ込めた指で前髪を直しながら、紫乃は待ち侘びた。待ち侘びるくらいなら、どれだけでも出来た。ドアの向こうから聞こえ始めた物音が、今にも生身となってドアを開けてくれようとしている。
であれば、きっと、ドアを開けてくれたなら。彼はちょっと仕事疲れでくたびれた表情をほほ笑みで誤魔化そうとしながら、夏らしい薄着の襟を正すに違いない。更には、目を伏せる。そして、やや恥を含んで、口ごもる。ごめん、普段着なとこ見せて……
(いやいやいやいや無い無い無い無い無い!)
目まぐるしく湧いて出る白昼夢を、モグラたたきのように潰し終えた刹那。
内側より、開錠する音が響いた。ドアが押し開けられてくる。咄嗟に、ドアの影に隠れてしまう。
ドアは蝶番を支点にゆっくりと円弧を描いて、壁から垂直になる前に止まった。
陰から伸びた素手が、ドアのへりを掴んだ。声が聞こえる。
「―――ジーずァ―――ノーバディアぅとサぃ―――」
(え?)
なにを言っているのか分からなかった。
と言うよりも、その低音でひり出された呟きが、ひどく忌々しげで舌打ち混じりであることに気を取られているうちに、見えてしまったのが彼の姿だった。ドアの向こうからまず覗いていたのは素手、それにつられて出てきたのは、素肌の腕―――腕から肘、どころでなく、肩から腹まで出てくる。腹までで済んだ。よかった。
よくない。半裸だ。
「にゃああああぁぁ!?」
我を忘れて、紫乃は金切り声を上げていた。
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