「それで。なんでしょう?」
「登録社員から引き抜いてきた上野さん。上野、飛小夜(ひさよ)さん。仮雇用中の。記憶にあるかな?」
「もちろんです。彼女に女性独身寮の案内をしたのは、わたしですから。その時は大家さんが不在で、鍵を借りて。その上野さんが、どうかなさいました?」
「君は社内組だし事務だから知らなかったろうが、今週半ばくらいから、ひどく調子を崩している様子だったんだよ。上野さん。いや、わたしも営業課長から報告を受けて知ったんだけど」
そこで、喋る言葉を考えるいつもの手癖で片耳を掻いたのだろう。社長のせりふが止まる。彼だって休日で自宅にいるはずなのだが、物音からは、まんまるの目に管理職の悲哀を漂わせながら示指で耳朶をさするデスク姿しか思い浮かばなかった。
その温厚な丸顔に似合わない、困惑を宿した静けさの漂う声が語っていく。
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「眠れていないのか、ぼろぼろの顔つきで。情緒不安定で、挙動不審になって。急に爪をかんだり。昼食も食べられなかったり、食べても吐いたり。で、金曜日は早退させたんだが。ちゃんと病院を受診したのか尋ねようと電話しても、出てくれない。しかも運悪く、今、大家は旅行がてら初孫の顔を見に行っちゃってるんだよ。寮長なんてもう何年もいないし」
「わたしに、上野さんの安否を確認してきてもらいたいってことですか?」
「ほんと、こんな夕方にねえ。上野さんのプライベートに首を突っ込むようなことでもあるんだろうけど。重々承知していても、ついつい気になってしまってねえ。男のわたしが独身女性を訪ねるというのも、気が引けるし。すまないが、頼まれてくれないだろうか?」
考える。考えるまでも無いことは分かっていたが、それでも依頼を渋る要素がありはしないか、念を入れておくに越したことはない。寮の住所も、彼女―――上野が、そのどの部屋に住んでいるのか知っているのも、確かに大家を除いては紫乃しかいないだろう。あのアパートは、一応は女性の独身寮という名目にはなっているものの、実際は会長の持ち物件であり、空き部屋を埋めるために社とは無関係の女性へ、ほとんどの居室を割いている。しかも、上野の顔も知っていて話もしたことがあるとなると、やはり紫乃しかいないのだ。
だからこそ、こうして折り入って電話をかけてきたのであろう社長を思うと、腹は決まった。
「分かりました。戸締りしたら、すぐに出ます」
「ありがとう。ピンポンして返事が返ってくるかだけでも構わないから」
「はい。確認次第、連絡します。この番号でよろしいですか?」
「ああ。待っている。頼んだよ」
通話が切れた電話を手に、紫乃は私室へと戻った。この部屋だけでなく、全ての施錠とガスの元栓を確認して、日焼け止めだけ塗り次第、行かなければならない。
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