「ええと。あの」
少し及び腰で両手を口の前まで持ち上げて、おたつきながら小杉が口を開く。たおやかに伏せた眼と、それを痛ましげに彩る睫毛の紫紺の影は、紫乃から見ても絶妙な色気があった。それが狙いだと分かりやすいのが難点だと思えたが、美点だと思わない男だっていないに違いない……過去にどれだけ攻略を重ねてきたものか、小杉は素振りに相応しい弱々しさで、己の無垢と無邪気と無罪を訴えていく。
「違う、ちがっ、違うのぉ。あたし、ほんとに先生のこと想うと堪らなくて、我慢できなくて……」
そこで小杉が、言葉を切った。麻祈の双眸にひとかけの体温でも宿らないかと期待したらしいが、期待はずれだったことは即座に悟ったらしい。訴えかけの濃度が増した―――言葉の数や抑揚だけでなく、身ぶり手ぶりも切実に。
「最初にデートした時から分かってました。だから、先に分かっちゃったから。先生から気持ちを言ってくれるの待ってたんですけど、この人があたしと違ってメソメソした手で先生の優しさにつけ込もうってしてるって聞いたから……それで……我慢できなくって、―――」
いつしか紫乃も、席から腰を浮かせていた。
麻祈は無言だった。ただ今は、言葉を隠している瞳の色をしていた。それが口から零れ落ちた時、“彼が麻祈になってしまうと”―――
思えた時には、もう遅い。
黒瞳が覆われた。目蓋ではなく、黒髪で。頭を下げたのだ。
「申し訳ありません」
辞儀を固めて、言ってくる。
「俺が招いてしまった今現在の事態について、誠に申し訳なく思っています」
そして、身体を起こし、顔を上げた。こちらへ視線を流して、最後に葦呼を見た。静かな声と沈んだ眼差しは、まるで聖書を読み上げているようで、そのせいか物腰にもある種の敬虔さまで感じてしまう―――殉教する牧師でもないのに。ないのか?
ぞっとしながら、紫乃は不吉を予感した。
「この際です。皆さんとの関係を、俺の口から、はっきりさせても宜しいでしょうか?」
「はい! お願い!」
直感でさえどこまでも紫乃と正反対に、小杉が歓声を上げた。歓迎する声を。麻祈の出す回答が、己にとっての解答に違いないことを確信し、喝采している。
紫乃には分からない。紫乃が彼に手向けるのは、いつだって“どうして”でしかなかった。正答? 誤答? 答えがあるのかすら分からない。応えてくれるかさえ分からない。……のだから、
どの風景も、“どうして”にまみれて、理解できない。
どうして麻祈の左手が伸びた先が、葦呼の顎なのか。
どうして左手に続いた麻祈の唇が、葦呼のそれに重なったのか。
どうして、口づけを終えてから人恋しさが増したとばかり、何事かを囁きながら麻祈が葦呼を抱き締めたのか。
どうして、抱き締めたのがそんな いたいけな理由ではありえない、陰険な限りににやつきながら―――
「実は俺こそ正真正銘の泥棒猫で、生まれてこのかた家庭がある女性への横恋慕でしか興奮しないんですよね」
(そんな、ことまで)
愕然と。ただただ愕然と、紫乃はそこで物思うくらいしか出来なかったので。
葦呼の、背後から腰抱きにしてくる麻祈に対する反応にさえ、正気を挟みこめなかった。
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