「―――あーあァ」
その呟きは、部外者が聞いてしまったことに後ろ暗さを覚えるような艶を刷いていた……
「どうしてくれるんです? 言っちゃって。わたしの方は、まだちっとも興奮してませんのに」
そして、葦呼が片手を浮かせて、肩の上にある麻祈の頬骨にかける。そのまま、自分の髪へと抱き寄せた。麻祈の首筋にぴったりと頬を寄せて、麻祈の頤の影でくすくすと笑う。陰徳も馨(かぐわ)しい艶美(えんび)が薫る。
「わたし以外に先生に熱を上げてる馬鹿を見せてくれるって約束したのに、これは約束違いじゃありません?」
「そ、う―――かな」
くすぐったそうに息を詰まらせる麻祈。
それを楽しんで、葦呼が微笑む。
「そうよ。サプライズが無いわ。期待ハズレ。ほら、どうしてくれるんです? せんせ」
言いながら、葦呼はもう一方の手で、腹にベルトのように回されている麻祈の腕に触れた。そのまま手首から手の甲、指先まで撫で上げて、五指を絡ませる。そして、そこから掌を連れ出した。腹部からくびれ、更には乳房。その動きをみるにつれ、幻聴が聞こえた。ほら、分かる? 女の子の身体を洗う時はこうするの―――
「ちょっとそこの。どうして欲しいって思った? それ、今度アンタらふたり並んで先生にご奉仕したらいかが? わたしの次点くらいには格上げして戴けるんじゃなくて?」
それは、こちらに問いかけて挑発するように見せかけながら、実は己の優越感を引き立たせるためだけにある高慢な口調。
答えを必要としていない問いに、返事をする必要はない。そんな理由でもないだろうが。小杉がしたのは、絶叫だった。
「い―――やあああぁぁあ!!」
ついで、自棄だった。
頭を振り乱して、椅子に掛けていたハンドバックを引ったくる。が、金具でも引っ掛かったのか取れず、結局は椅子を蹴り倒した。本来はもっと暴力的に叩きのめすはずだった椅子が一撃でノックアウトになったのは、蹴足の張本人でさえ意外だったようで、不意に捌け口を失くした激情に地団駄を踏むと、万力を込めてハンドバックを振り上げる。振り下ろす。なにかが壊れた音がした。構わず、振り回してくる。
(危な―――)
逃げ腰になったせいで、こちらも椅子が倒れた。いや、かすめていった小杉のハンドバックが引っかけていったのかもしれないが。とにかく、壁に沿うように横倒しになってしまう。植え木鉢に当たって割れたりするんじゃないかと冷やりとしたが、うまいこと壁際の隙間に落ちたのか、致命的な音色は聞こえなかった……少なくとも、小杉のハンドバックの中以上のそれは。
葦呼と麻祈を窺うが、両者とも身体を固めて息をひそめているだけだ。いまだに密着しているのも、身体を固めて息をひそめることに比べれば、取るに足らない些末事だからだろう……瓜二つの無表情は、じっと被害に対して身構えながら、災害源からの己の距離を目測していた。
恐らくは小杉も、二人のそれを見ていた。ただし彼女には、紫乃とは違う風に見えているのだろうと思えた。外野に騒ぎたてられたところで微動だにしない、ふてぶてしい恋人たち。あるいは、外野に騒ぎたてられることで微動だに出来ないほどの陶酔を覚える、恋人たちとの言い慣わしが妥当とは言い難い関係の男女。
だからこそハンドバックを拾い上げた小杉が駆けだしたのは、ふたりにそれで殴りかかる為だとしか思えなかった。思わず身を竦ませる。が、予想外に、駆けていった向きは正反対だった……間合いを詰めるのではなく、間合いから離脱する方向。店の玄関へと。
そして、そのドアを開け、跳び出していく。
「この―――人でなし!!」
その唾棄さえ叩き潰すような勢いで、玄関の戸板が閉じられた。
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