.視界がブレる。揺れる。そして、跳ねる。締め上げられた胸が苦しい。いつしか真正面に詰め寄って来ていた葦呼が、紫乃の胸倉を掴んでいた。咄嗟に逃げようとした身体が跳ねたが、その華奢な体つきからは想像だに出来ない万力に締め上げられて、身じろぎにもならず終わってしまう。逃げようとした? なに様のつもりで?
「ごめ―――」
「やめなさい」
葦呼が、咆哮した。
呟くような声量だった。それを独白するような声の質だった。それでも確かに、それはこちらへ向けられた吼え声だった。葦呼が、前髪同士が混ざり合うほど間近まで、紫乃の顔を引き寄せる。筆舌に尽くしがたい情動に燃え上がる瞳を、見るしかない。
その炎が嚇怒であったなら、紫乃は中断した謝罪を再び取り戻していたはずだ。誰かを怒らせるのはいつものことだ。それに謝ることだって。
そのはずだったのに、葦呼の瞳の揺らぎが、まるで泣き出すのを堪える子どものようだったので、紫乃は言葉を失うしかなかった。
葦呼のせりふが、自分の吐息を轢き潰していく。
「前に言ったよね。教主になるなら狂うんじゃない。こっちまで、真っ当にやっていきたくなくなる―――!」
と。
声を土壇場で閉ざし、両目さえ閉ざして、葦呼が俯いた。
亜麻色の髪に、紫乃の顔半分が埋まった。ふうわりと、鼻先にシャンプーの残り香がする。ふと、身体が楽になった。葦呼が、紫乃を拘束していた手を解いたのだ。
それから、言ってくる。まるで今先の全てが幻影だったかのように、呟く―――ひとりごちている。
「こんなこと、言う気さえ失くしてくれるんだから。あの王様は」
―――そして、ふらりと紫乃から離れながらのそれも、恐らくは、独り言だった。
「あんたら。本当に、お似合いだ」
その時だった。
「ごめん遅れた失礼しまっす!」
玄関扉を跳ねのけるが早いか、そう宣言しながら、彼女―――華蘭が喫茶店に跳び込んできた。
実際にジャンプ混じりの大股でドアマットを跳び越えて、無事に着地するには難易度が高そうな作りをしたミュールを難なく着陸させると、改めてこちらを見咎めてから、つんのめるようにして立ち止まる。なぜか敬礼するように斜めに掲げていた右手を下げつつ、その入れ替わりのように、きょとんと声を上げた。
「え? なにこれ。人払いするって葦呼から聞いた時は時代劇かよって思ったけど、マジ誰もいないし。ってか、由紀那……も、噂のチャラ医っぽいのもいないし。どーなった?」
「ええと」
そう口にしたのは、葦呼だった。
紫乃の、数歩横。引っくり返った椅子と、ずれたテーブルの間で。まるで違和感などないように華蘭へと身体を返し、いつものように淡白な返事を遂げる。
「終わった」
「なにそれー!?」
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