.前回と違って、廊下との仕切りの簾は上げっぱなしのままだ……単に下ろすタイミングを見失っていただけなのだが、麻祈はこれ幸いと、眼差しだけでも下界に遁走させた。店内。見える範囲のテーブル席はおおよそ埋まっており、そのおおよそは簾が下げられている。まるでモザイク処理された告発者のように安堵して、誰も彼もが謳い出していた。独断―――美談―――「やっぱ人生、愛よ、愛」―――ピンボケした照明は、道化たちの弁証法をさも王道であるかのようにぼかし、飲み干した酒杯の数を記憶からちょろまかし、痘痕を笑窪に変える。シャノン・ハートレーの定理を脱ぎ捨てて、正気のまま近づけば、笑窪に見えていた相手の痘痕の醜さと、笑窪だとみなしたがっていた己の下衆らしい利己心が引き立つだけなのに。ああまったく、自分も酔っておくんだった! 気が乗らない宴会の前にカンフル剤として一杯ひっかけてから出かけるのは恒例だが、佐藤だからと油断していた……
「昔だけど。分かるに決まってることが分からないのを知らない奴と、分からないと決めつけていたのが分かったんだと知っただけでいられない奴が、双方向的に接近した」
佐藤から、声。
噛んで含むと、興味を引かれるフレーズではあった。尋ねる。
「つまり。分かり合えないに決まってるふたりが?」
「そう」
「物理的に?」
「心理的にも」
「つまりは。惚れた?」
「のかな」
「お互いに?」
「多分」
「同時?」
「恐らくは」
「お悔やみ申し上げます」
「どうして?」
「悲劇だからだ」
[2回]
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