「ああ、なんてこった。お前がご持参下さった建前は、わたしめのような下衆にさえ、神様みたく堅牢であらせられる! ほらよ、お次はお前の番だ。お待ちかねだろ。続けてやれよ―――やれよ、それをしたいがための犠牲だろうが、今のすべては!」
佐藤は、―――
「違うよ。あの妖怪が、そんな大層なものか」
ひとりごちると、あっさり麻祈を開放する。
そして、言ってきた。酒席に座り直して、いつものように。アルコールの入った麻祈に接するように。
「確かこないだの学会では、複素関数とランダム行列が目玉だったんだよね?」
「―――そうそう! やっぱそーじゃねーと(Now you’re talking!)! そうなんだよ、その演者が! フィールズ賞候補に何回も挙がってるあの博士、―――……」
麻祈も、オタク話に向けて口火を切った。お手の物だ。アルコールの入っていない佐藤のように、彼女に接するのなら。
そして尽きるまで、駄弁は続く。麻祈は一滴も酒を飲まなかった。
やがて、時計の針でなく、佐藤の雰囲気が終業を告げる頃、二人は店を出た。呼んだタクシーはすぐに到着した。佐藤を後部座席に詰め込みながら、彼女の家の住所を運転手に告げる。この前、アメリカから佐藤へ絵葉書を送った宛先である―――眼差しで正しいか窺うが、佐藤は紅顔に寝ぼけ眼を開けておくだけで精一杯のようだった。その眼差しも、自宅ではない遠くを見ている。この地上ですらないのかもしれない。
まあいいかと、麻祈はタクシーの運転手に出発を催促した。間違えていたら、間違えていたと気づいた時に正せばいい。ここは日本だ。どれほど間違えたところで、地雷が埋まった国境線や、鋲打ち革ジャンを着流して噛み煙草をクチャクチャさせたギャングどものテリトリーを侵犯する危険はない。
ふたりを乗せたタクシーが、夜半の街並みを走り出す。
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