.ふと視線を感じて、椅子に座ったまま、母を見上げる。すると母は、やはりこちらを見ていた……否、見ながら、身体をこっちに向けた。買い物袋から最後に出した紙箱を、ことんと台所に置いて―――あ、今夜はカレーなんだ―――、適当な手つきで買い物袋を四つに畳む。
視線を外さぬまま、言ってくる。
「ねえ紫乃」
「ん?」
「男の子にでもフラれた?」
ばたん!
と、音を立てて倒れたのは、食卓に乗っけていた紫乃のバックだけれど。
むしろ自分が転倒していた方が、その痛痒と恥ずかしさに気を取られることができたから、よっぽどマシだったろうと思う。誤魔化しが利かない。言い訳が成り立たない。まずは動悸。次いで、汗。室温とは無関係に跳ねあがる体温。熱過ぎて、ほせ上がる思考、ゆで上がる血液、せり上がってくる心臓。うわずる声―――
「いや。は。な? え。そんな。違うから。まだそんなこと、な」
と。
それを聞いてしまって、紫乃は愕然とした。そんなこと。それがないって何? わたし。
母は、どうということもなく立っているだけだ。紫乃の様子に、意外そうに目をぱちくりさせている。
「あらま。諦めてないのね紫乃。どうしたの?」
「ちょ、ちょっ、と、あの! じゃあね!」
椅子を跳ねのけるように立ちあがり、後ずさって母から離れる。
ほかにどうしようもなく、手の中に残っていた携帯電話だけを握りしめて、紫乃はそのまま逃げ出した。
と言っても、行くあてもなく、階段を駆け上がって二階の自分の部屋に駆け込む。ドアを閉めると、古びた蝶番がうるさい。陽光に蒸れた部屋の中は暑い。窓を開けようと、今朝は閉ざしたままだったカーテンを跳ねのける。力任せに跳ねのけすぎたせいで、うまくカーテンレールを滑らなかった布束が、また跳ね返ってくる。
「もー!」
名状しがたい発奮に、紫乃はカーテンを叩き返した。
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