(どういうこと? どういうことなの? なんの話なの? 葦呼にとっては)
紫乃には皆目、見当もつかなかった。
それだって、いつものことだ。
(違う)
葦呼らしい言葉は、分かったことがない。
(違うったら!)
今まで通りに楽をしたいだけのことに、“彼女”まで巻き込むのか。
紫乃は、鷲掴みにして抱えていた携帯電話を、そっと胸元から剥がした。体温の塊のようになってしまった液晶画面に触る。反応して起動するディスプレイから、佐藤葦呼を見つける。電話を掛ける先に、彼女がいる。いないかも知れない。“それがこわい”。
音声発信する土壇場で、指先が止まってしまう。
このままでいれば、これからのすべてから免れる。そう思うし、このままで済ませる理由とてある。葦呼は総合病院に勤務している女医だ。こんな平日の午後に、電話の応答など不可能に違いない。それに激務で忙殺されているのだから、過去にあったひと悶着など、とうに風化し切ってしまっているはずだ。蒸し返してどうなる? だとしたら? 携帯電話をしまえばいい。電源を切って、窓を開けて、空気を入れ替えれば心も入れ替わる―――
(うるさい!)
無音で怒鳴りつけて、紫乃は電話を発信した。
携帯電話を耳に押し当てる。コールが続く。コールが長い。それ見たことか、だから最初から諦めておけば―――
(うるさいってば!)
直後だった。電話が通じたのは。
葛藤に気を取られていたせいで、言葉が出遅れる。
挨拶しようとしていたのか、名前を呼ぼうとしていたのか、それ以外の何かなのかさえ分からない――― 一切の物思いが消し飛んでしまった。蚊が泣くような、葦呼の悲鳴を聞いてしまっては。
「……たァすけてーェ……」
そして、それだけで終わる。助けて?
なにをだ。誰をだ。どのようにだ。そしてそれ以上に、
(それ……わたしのせりふ……のような……)
行き場の無くなった感情が、波止場の波浪のように渦を巻くが、それこそ行く場所が無いのだから仕方が無い。跳ね返った波が、遠ざかって去っていくのも、見送るしかない。
どことなく、ぽつねんとした心地を味わいながら、紫乃はカーペットの上にうずくまったまま身動ぎした。葦呼はあれきり、電話向こうから、なにも言わない。呼吸する音さえ聞こえてこない。
せめて、確認から始める。
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