(―――ああもう)
内側の囁きに、矢も楯もたまらなくなる。バス内の電光掲示板にずらりと整列した停車場名と、己の焦燥を打算して、紫乃は三つ先の停留所で降車することにした。
そして何事もなく、その地点でバスから降りて。
記憶にある市街地へと、駆け出す。すぐに息が上がった。小走りになる。つ―――と、汗にうなじを撫で下ろされ、ぞわっと総毛立った拍子に立ち止まってしまう。
それを指の腹で拭ってから、今更になって道順が不安になった。いったん、その場に立ち尽くす。
(……こんな風に葦呼の家に行くことになるなんて、これっぽっちも思わなかったなぁ)
片手を庇に、紫乃はあたりを見回した。
よくある住宅街である。見回したところで、真上の空くらいしか目線は通らない。敷き詰められた家壁と、更にその中に詰め込まれた家並みが、まばらな電信柱や鳥のフンの痕跡を平凡なアクセントに、どこまでも続いていく……駅へと直通する基幹車道と、そこから分岐した葉脈によって養われる、中流の区画らしい規格だ。つまり、学校や病院―――葦呼の勤務先―――や商店などからは徒歩圏内、かつ、各種娯楽施設へのアクセスは徒歩圏外であり、これにより徒歩でしか出歩けない子どもの管理を比較的容易に行うことを可能としている。反面、ゆきずりの愚連隊に目をつけられるような目ぼしい花もなくなってしまうので、にぎやかしさに欠ける点は否めないが。
「あ。ナマ花ならあるよ。すっげぇナマ花。むかぁし、勝手に切られて盗まれちゃったことがあるんだって。でも大家さん、自慢話で言ってたけど」
とは、葦呼の談だ。あの時は、彼女の運転する車の中で、華蘭と一緒にそれを聞いた。そう言えば、あれは夜だった。小さな同窓会を三人で催した後だったのだ。
だから、あの時は気付かなかったのだけれど、
(うわぁ。ほんと、凄い花……)
二階建て賃貸住宅の門扉に作られた花壇に、改めて賛美の吐息を洩らして、しげしげと紫乃はそれを眺めた。
膝小僧を押さえながら、前屈みに覗きこむ。そういったことに疎いので花の名前は知らないが、濃い緋色と黄色の大輪が咲き誇る隙間に、ちょぼちょぼと淡い水色の花が敷き詰められていて、まるで花束のギフトセットのように見えた。
(これ、一輪だけ盗んでいってもセンスないよね。ひと束、根こそぎ、ちょんぎって持っていったのかなぁ?)
だとすれば、盗まれたことに、怒りと共に誇らしさを覚える気持ちもあるかもしれない―――手塩にかけた花束が、そんなにも誰かを魅了したことに。花束……花束にも様式名称があり、こういった、中心を作ってクレープのように仕上げたブーケのことを、
(ヴィクトリアン・ポジー)
その雑学を教えてくれた友人は、この門の向こうの賃貸住宅一階に住んでいる。
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