「今朝、勤め先に病欠しますって連絡してんのに。昼のメールにも返信してんのに。ちっとも覚えてない。でも履歴あるし。キモいィい!」
「あ、そ―――うなんだ」
鼻から声が抜けるのに適当に合わせると、どうにか相槌のようになる。
葦呼は、それに頓着するでもない。
「うー。まーいーか。どーせ野郎とは数学の話しかしてないし、だったらそのうちまた話すだろ」
そして独壇場は、聴衆とお構いなしに閉幕した。葦呼がぐだっと肩を落として、無駄に消耗した体力を後悔するように小さくなってしまう。とりあえず、そうしてみて股の間にあるコップを再発見したようで、えっちらおっちらと卓袱台の上に返納してきた。
それを見ていたのは惰性だった。坂田家の家訓によれば、人様の部屋の中というのはあまりまじまじと見ていいものではないので、ほかに出来ることも無かった。それでも、コップの水なんかに、話題はなかった……少なくとも、紫乃が話したいと思えるものは。
ただし今の問題は、話題性の有無でなく、そのことがはるかに先が読めない事態の呼び水になるのではという懸念だった。
「…………―――」
躊躇しない筈もない。
更には、値踏みするでもないのだが。まずはそれについて、尋ねてみる。
「数学って。微分積分とか、高校でやったあれ?」
「あれの延長線上。宇宙とか次元とか重力とか。市場経済もたまにやるけど、あいつはそんなに好きくないみたい。マネーゲームよりSF系」
「SF系?」
「うん。最近はリーマン予想が熱いみたいだけど、アレシボ・メッセージについて、やんや言ってたこともあるし」
「あれしぼ?」
「うん。素数の原稿用紙に合わせて電波のインクで描いた、宇宙人への不可視の手紙。その昔、天文台から発射した」
「……数学の話なんだよね?」
「うん。数学」
「あっそう……」
「つっても、SF系は色んな分野がしっちゃかめっちゃかに食い込み合ってるから、いつの間にか数学じゃない違う話してるなってことも結構あるよ。シュレーディンガーの猫とか、オッカムの剃刀とか」
「それはどっちも数学じゃないんだ」
「ないね。ツッコミだろうさ、あえてジャンル分けするなら」
葦呼の返事は、あけっぴろだ。声色だけ、いつもと違って酒焼けしてしゃがれているが。
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