「ただいま」
「おかえりなさい」
意外なことに、返事があった。
時刻は、夕刻前の昼下がり。紫乃は、玄関でぽけっとしてから、家に入った。会社の制服姿のまま台所に行くと、母が洗い場で買い物袋を広げている。遠目に、ひげが生えたニンジンが見えた。
「お母さん。パートの勤務、早上がりだったの?」
「あんたこそ」
振り向きもせず言ってくる母の手元から、食卓でいつも自分が使っている椅子へと視線を転じて、紫乃はそのままそちらに回り込んだ。その間も、会話は続いている。
「わたしは、こないだ電話番で居残りした分、今日は早く上がってって言われただけ。残業代につけたくないんだって」
「そう。だから、もうお帰りなの。にしても、こんな時間から顔を合わせるの、久しぶりね」
「言われてみたら、そうかも。疲れてない? なんなら夕ご飯、わたし作ろっか?」
「いいわよ。もう買い物してきちゃったから、お母さんの手順でやっちゃうわ」
「ふーん。そう」
となると、することもないのだが。なんとなく、そのままテーブルの定位置の席に腰かける。
腰かけてしまっては、冷蔵庫にお茶を取りに行く気も起こらない。ましてや、着替えに行くのなんて、後回しでいい……会社支給の夏服はスカートとベストとリボンタイだけで、ブラウスやストッキングは自前のものなので、これから改めて着替えると洗濯物が増えるだけだ。風呂を済ませてパジャマになるのが最も効率的だ。
といっても、まだ入浴するには早過ぎる。とりあえず脱いだベストを椅子の背もたれに着せてから、紫乃は外したリボンタイをショルダーバッグもろとも食卓の端っこに置いた。ちらと食器箪笥の上にある置時計に目をやるが、確認した時刻は、やはり入浴するには早過ぎる―――更に、おやつを食べるには遅過ぎる。ついでにテレビ番組は朝のうちに新聞でチェックしておいたので、この時間帯はせいぜい視聴したところでテンションアゲアゲな外国製通信販売くらいしか面白くないだろうとの予測まで立っていた……アゲアゲという死語レベルに、その番組には、から笑いしか起こらないだろうことまでも。
(つまんないの)
目を閉じる。
蝉時雨がひどい。聞き分けられないほどに。更には、聞き飽きるほどに。
目を開ける。だからどうだというものでもない。
手持無沙汰に、紫乃がショルダーバッグから携帯電話を取り出した時だった。
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