.ぴた、と葦呼の動作がフリーズする。
一秒。二秒。三秒が経つ頃には、わなわなと震えだす。やっと呼吸し出したようで、せりふも戦慄いていた。うわ言のように口走ってくる……なんでか目を閉じたまま。
「なにゆえキッチンの流し台にユーウビーンブーツー? Haveを足すだけでHave you been boots? アナタ今までズット靴磨き(職)してたノーう?」
「ごめん。そんな風にトンズラされると、葦呼が咄嗟に言語野だけでも海外に高飛びさせたくなったんだなってことしか分からない」
「覚えてない……昨日の夜、ポストから持ってきたのかな……このあたしが、昨日のことさえ覚えてない? 覚えてないよ……」
「そ、そこまでショックなの? 酔ってた時の記憶を失くすって、結構あるらしいよ? ほら、華蘭なんか、橋の欄干に馬乗りになって『わたしを解き放て! しゃちほこ!』って絶叫したのさえ覚えてなかったし」
「あれは忘れたふりでもしないと穴を掘って入りたい衝動に負けるからじゃないかと……」
「まあそれは疑う余地ないけど」
紫乃と同様に、葦呼が華蘭の酔狂を思い出したのは疑いのないところだ―――そして、紫乃以上に感じ入ることがあったのも、また疑いの無いところだろうと思えた。葦呼は目を半分だけ開くと、紙の山からやや外れたところを、びくびくとチラ見している……その怯え具合は、見詰めるほど呪われるとでも信じているかのようだったが、現実的に考えれば、記憶のない自分がいる証拠と、その物証の影響で余計なこと(記憶)を思い出すかもしれない自分の両方が恐ろしいのだろう。
頭を振って、泣きごとを食いしばる。
「なんでこんなことになってるのか……玄関戸のポストなんて、光熱費の支払いを口座引き落としにしてから、どーせ妙な勧誘のお知らせばっかりだと思って放置しっぱなしだったのに。うう。紫乃、その郵便物の一番古いやつ、消印いつになってる?」
「えっと……」
紫乃は、紙の山を両手に持った。
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