.葦呼の顔色は血色を取り戻したとは言い難かったが、言い回しや仕草に血が通う程度には―――「ああ、明日、職場で平謝りしなきゃ……平らに潰れて謝らなきゃ……ひらべったく……ひらべったい……ひらひらべったり……」「ごめん。聞くだにコケそうそれ」「じゃーどーしたらよろしげかー!?」「まず平らに潰れないとこから始めようよ」―――回復したように思う。上の空だったせいで、確信は持てないが。
まあ、確信の無さについては、葦呼とてこちらと似たり寄ったりだったようだ。最後に彼女は、こんなことを言いながら、紫乃を玄関から送り出してくれた。
「あたしのために来てくれたのに、ろくなこともしないロクデナシどころか、ぼわっとしててゴメン」
「―――こちらこそ―――」
ぽろっと零れてしまった本音を、葦呼は見落としてくれた。ぼわっとしていたのだろう……葦呼の方は、二日酔いに取り憑かれて。
そして、葦呼宅を出た紫乃は、真っ直ぐに集合住宅の敷地から出た。見送っている葦呼の目線を意識していた。
なので門扉を曲がり、それが塀の向こうになった途端に、外聞は崩れた。駆け出してしまう。躓いて、転びかけた。どうにか持ち直す。前のめりにアスファルトへ倒れるなんて、とんでもなかった―――下腹に、ショルダーバッグを抱き締めていた。
小走りするまま、携帯電話を取り出す。液晶画面に地図が復活した。それを目線で掻い摘む。ショルダーバッグは肩掛けにして、携帯電話を手にしたまま、駆ける。
息が上がってくる。咳き込んでしまう。呼吸の摩擦に不慣れな喉が腫れぼったくなって、わき腹には鈍痛が溜まる。熱っぽい瞼に涙が滲んで、目指す先に行こうとするのを邪魔する。目指す、先―――
それが、帰路に就くバス停であったなら、今日は平凡に締めくくられるのだろう。安心・安全・安楽な公共車両で、小銭と引き換えにゆったりと身体を休めながら帰宅すれば、自宅にいる家族と夕飯が出迎えてくれる。母が大袈裟に、父が好奇心と父性を丸出しに、姉が冷ややかな朴訥さで、夕餉を囲みながら葦呼との出来事を聞いてくれる。慣れ親しんだ喧騒で温んだ日常に、いつものように包み込まれてしまえばいい。なんの問題もなく幸せになれる。
携帯電話の着信をうかがいながら、疎かになっていた時間も。
のみならず、携帯電話ではない“向こう側”にいる彼を見つけてしまった、あの時からの紆余曲折のすべてを。
これから、無かったことに出来るはずだ。
(やだ)
出来てしまって、構わないはずだ。
(嫌だ)
紫乃は、地図が示した先へ、住宅街を走り続けた。
[1回]
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