「ひゃっ!」
悲鳴を上げて、紫乃は背後を振り返った。誰もいない。うなじを押さえた掌が濡れていた。
と同時に、ぱし・ぱし、と耳の上や肩口にも衝撃がやってくる。地面にもだ。乾いていたアスファルトに、見る見るうちに水滴がはじけて、花火模様が広がっていく。雨だ。
紫乃は思わず、目前のアパートメントの軒下に飛び込んだ。その総合玄関は、一畳半あるかないか……男性同士なら行き交おうとすれば肩同士がぶつからぬよう気後れするような狭い甍(いらか)の下に引っ込んで、雨空を窺う。夕立だろう。夏の風物詩だ。驚く気にもなれず、止むまでの時間をやり過ごす。一分が経ち、五分を超えて、……
雨脚は強まり続け、土砂降りと化した。
土砂降りというか、土砂崩れである。あまりの変貌っぷりに、ぞっと腰が引けてしまう。まるで、滝の裏側から外を見ているようだ。足元は歩道から浅瀬となり、泥水を下流へと流し終えて清流へと変貌している。雲もまた、綿が墨を吸うように、どす黒く変色してしまっていた―――夜に差し掛かっての闇色ではなく、稲妻を何発も含んだ不吉な暗黒が、とぐろを巻いてゴロゴロと波打っていた。
「ゲリラ豪雨?」
ひとり言は、アパートの玄関に響くまでもなく、雨音に掻き消された。それだけは、都合がいい。
とは言え、自分の他に誰もいない今、不審がられるわけでもなし、響いてくれても一向に構いやしないのだが。これから帰宅してくる者がいれば、ここで鉢合わせになるのだから、口を噤むのが間に合わないなんてことは無いし―――
(ちょっと待って)
はたと紫乃は、それに気付いた。
(ここって麻祈さん家なわけで。友達の絵葉書から勝手に盗み見た住所から、ここ探して、うろついて)
要約すると、答えが出る。
出ると同時に、戦慄する。
(ストーカーじゃん! わたし!)
押し殺した悲鳴に喉元を席巻され、紫乃は声なき絶叫の代わりに、顔面から血の気が引く音を聞いた。
(どどど、どうしよどうしよどうしよー!?)
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