「…………」
叩かれた襟を握ってみる。みかんを搾ったように、水しぶきが飛んだ。
つま先の内側が水たまりになってしまっているパンプスを片方ずつ脱いで逆さに振るのだが、また履くとすぐに背筋から伝い落ちた水気で同じ水深が出来てしまう。
どれもこれもハンカチで拭き取れるレベルではないが、それでもハンカチを携帯していないことが悔やまれた。
(どうしよ。電話したら、きっと家の誰かが迎えに来てくれるけど。こんな濡れ鼠じゃ車の座席に座れないし……こうなったら、タクシー呼んでみるとか? でも、帰宅ラッシュに巻き込まれちゃうくらいなら、歩いて帰った方がいいかなぁ。いやでも、こんな濡らしたまま家まで歩いたら、このパンプス壊れるかな? 短大の時に買ったのだし。うう)
いっそ凍えるほど寒いなりすれば決心もついたろうが、蒸し暑い熱帯夜を予感させる気温が下がってくれる気配はない。それどころか、ゆっくりと上がっていきそうな予感さえしてしまう―――雨が止み始めていた。雨粒が軽くなり、雲が落日に透け始める。そんな時によく見える、白い月まで薄雲ごしに見通せた。
(あーもー。真っ暗だったら、やっぱり車しかないって決心できたのにー。歩いて行けそうじゃん。どーしてくれんのー。もー)
八つ当たりが太陽系まで侵すのもどうかと思うが、どうしようもない。どうしようもなかったのだ。ぐしょぬれのまま立ち尽くしているのも、今後を考えあぐねてしまうのも、どうにもならなかったのだから。
ただし紫乃は、それがそれだけだと思っていた。思い通りに行かないのは、空模様だけだと。
それを、裏切られた。
まずは、死角から、あの声で。
「―――坂田、さん?」
だからこそ、沸騰した記憶があって。
「うぃっ!?」
その熱が一気に肺臓から喉元まで煮沸してくれたはずみに、変な音が出てしまって。なんでそんなことがこんな時にと、自分自身に裏切られたことに愕然としながら。
そして、その愕然を深める事になると分かり切っていながら、裏切り続けるのをとめられない。
豪雨を突っ切らせたあの切迫を忘れて、呼びかけに振り返ってしまう。
そうすると見えてしまう風景なんて察していたはずなのに、立ち竦んで動けなくなる。
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