「麻祈さん! 駄目です!」
彼が、わずかに振り返ったのは見えていた。何メートルも前、湿り気を帯びて束になった黒髪がそよぐ影で、横顔の中におさまった水っぽい黒目が、ぎょっと跳ねる。
けれどそれだけで終えて、彼はまたしても前を向いた。雨粒から目許だけ肘で隠しながら、ビル群の渓谷を突っ走ることに専念したようだ。このままでは、さっき紫乃が辿った道程を巻き戻しにするようにして、自宅に到着してしまう。本来なら彼が差すべき傘を、紫乃の手に残したまま。
「濡れますって! 返します! 傘!」
咳き込みながら、それでも紫乃は呼びかけ続けた。
大きな一軒家の角を曲がった時も、折り重なるように林立したアパートを抜ける時も、彼の後姿を見失う。せめて、声だけでも追いつかせるべく、叫ぶ。
「返しますから!」
駆け抜ける歩道。
アスファルトの水たまりを蹴って、パンプスの中の小石を踏んだ。走りにくい。ショルダーバッグも改めて雨水を含んでしまったせいか殊更に重たく、それを跳ねつけながら振り回す手足が一層に物憂い。疲れていた。へとへとだった。思い返せば、今日は走ってばかりいる。もう日も暮れて、どこからともなく雨の臭気の中に夕飯の芳香が紛れ込んでいた。はらわたが痛んだ。それが、走り過ぎたせいなのか、空腹に腸がよじれたせいなのか分からない。だって分からないといけないのはそんなことじゃないし、分かりたいことだってそれとは違うことだ。
麻祈が見えた。
民家の垣を曲がったところで、見えた。彼は立ち尽くして、ぼうっとこちらを見返してきていた。彼の家のアパートメントの、総合玄関の軒下で―――ちょうどさっきまで紫乃がいたそこで―――、まちまちに点いたり消えたりする蛍光灯に照らされながら、毛先やサマーセーターに飛び跳ねた水滴をちかちかさせていた。
遅れて紫乃も、その軒下に跳び込む。
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