.振り仰ぐ空。蝉の音は遠い。雨垂れの音は、それよりか近い。不規則なポツポツという音を、規則的な蛍光灯の明滅音がジッジッと焦がして、ビル群にカクカクと削り取られた夜空の静寂の退屈さを乱している。ぱたぱたと低空旋回しているのは蝙蝠だ。外灯に寄ってくる羽虫を狙っているのだろう。
(なんだろ。落ち着いちゃった)
そして、顔のほてりを手の甲でこすって、取れないかななどと思っていると。
「あの。とりあえず、タオルとかどうでしょう?」
「え?」
「お詫び」
麻祈が、そっと紫乃に視線で触れてきた。そこに暗示された事実に気付いて、わたわたとブラウスや足元を確認する。腕を動かしただけで水が飛んで、踵をずらすと水たまりの面積が広がった―――大型書店で雨宿りしていた時よりも、輪をかけて大きく。
(足元も見ないで走ったせいだー!)
気色ばんでいるうちに、彼が言ってくる。
「タオルなら腐るほどありますので、三階のうちに上がって、身体をあらかた拭いて乾かして行かれてはいかがでしょうか? あれ? 誤用? タオルは腐らないのに」
ひとりごちて首を捻る彼を見かねて、紫乃は口を開いた。
「すごくたくさんって意味なら、腐るほどで合ってるかと……」
「よかった。ありがとう」
笑んでくる、麻祈。
そして彼は、鎖骨の下あたりを撫で下ろした手をこちらに向けると、ひょいと紫乃から自分の傘を釣り上げた。ついで、ずれていたボディ・バックをたすき掛けし直して、きびすを返す。総合玄関の奥にある、アパートの上階へと繋がった蛇腹階段へと。
「ほら、こっち、早く。もう夜になる。冷えちゃいますよ」
と、階段の一段目に足をかけながら振り返って、上向かせた掌で指招きしてくる。洋画なんかで見る仕草だ。まあ、足を掛けているのが、幅一メートルも無いコンクリートむき出しのぼろっちい蛇腹階段―――と断言したところで反論は出ないだろう、金属製の手すりも青いペンキがはげたところから錆が浮いてキリンみたいなんだし―――なので、色々と台無しになっているが。所作そのものは、ちぐはぐなようで似合っている。
(……この人、本当に、外国で育った人なんだなぁ)
なんとなく実感しながら、紫乃は麻祈に続いて階段を昇った。
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