「ひと段落したら、靴下を脱いで、この袋に入れてください。あとそれ、俺のスリッパですけど、」
と、指差した廊下の隅には、言葉通りにスリッパがあった。布製の、ありふれたものだ。気付いていないわけではなかったが、気にかけてはいなかった……と言うか、気にかけていられなかったというか……
「よろしければ使ってもらって。素足でフローリングというのも冷やっこいでしょうから」
目が点になる。
点になった目で、ぎくしゃくと、麻祈を探る。彼は臆面なく、紫乃を見ていた。手を伸ばせば触れられる間近であるから、それを見間違えたりしない……ましてや、見慣れていることだから、見落としたりしない。紫乃が遠慮して、気兼ねして、辞去することを待ち望んでいる下心は、彼にない。
それでも、言ってしまう。自信が無い自分だから、彼から言質を取りたかった。
「は、履いて、部屋の中まで入っていいんですか?」
「……じゃなかったら、なんのためのスリッパ?」
こわごわと尋ねるのだが、彼こそスリッパにおける未知の活用法を警戒するかのように、声をひそめてしまう。言われてしまえば、彼の言い分こそ本当にその通りなのだが。
その時だった。ふと閃いたように麻祈が眉を跳ね上げて、ついで、上げたよりも下げる。苦笑いだった。
「あの。確かに、それは来客用のものではありませんが。俺、そういった感染性の持病ありませんから。ほんと」
「―――そうじゃなくて……―――」
「はい?」
聞き返されても、説明できず終わる。
紫乃は片足ずつパンプスから抜くと、靴下を外して、麻祈からもらったビニール袋に入れた。濡れぼそった靴下が臭うことは無かったが、それでも足の先のタオルドライは最低限にして、彼に勧められたスリッパに足をくぐらせる。大きい―――スリッパそのものでなく、スリッパについた足の形のでこぼこの幅が。
「……失礼します」
言って紫乃は、フローリングに上がった。しとど濡れた一枚目のタオルは簡単に畳んで洗濯機に入れさせてもらい、電子レンジの上から取り上げた二枚目をハンドバッグもろとも抱きながら、先を行く麻祈について部屋に入る。
そこは、廊下がそうだったように、フローリングが張られた洋間だった。八畳間だろう。奥にある窓から差し込んでくる外灯の明かりで、なんとなく見える。部屋の真ん中に小さなテーブルと椅子があり、壁にくっつけるようにして、ベッドと冷蔵庫が置かれてある―――
刹那、ぱっと点灯された灯りに驚いて、肩が跳ねてしまう。目つぶしをしてくるような光量でなく、親子電球の子どもの方のそれだ。
壁のスイッチから手を離しながら、麻祈が僅かに振り返ってくる。
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