.麻祈は、一階階段の踊り場に備え付けられた集合ポストの投函口を覗きこんだ時以外は足を止めず、上階へと進んでいく。ポストに書かれた号数から察するに、三階まで行くらしい。彼が時々振り返って、後方の紫乃の様子を確認してきた。心配を掛けたくなくて、しっかりと腿から足を上げて段を進む。その都度、ぺしょぺしょと靴底の水たまりを踏んだけれど、不快感ごとなかったことにする。
そして三階で、麻祈は四階に続く階段から外れて、廊下へと進んだ。胸くらいまである高さの柵で下界を仕切った廊下には、柵と並行するように各部屋のドアが並んでいる。外から吹きこんできた突風が、千切れてぶら下がった蜘蛛の巣と、丸まって転がる虫の死骸を揺すっていた。木の葉の吹き溜まりは、風に吹かれても動かない……長い間、そこで濡れて乾いてを繰り返すうちに、ヘドロのように固まってしまったらしい。コンクリートの黒ずみから、通り雨がここも通過したのは見てとれたが、それでも流れないとなると冗談抜きにヘドロと化してしまっているのかもしれない。
(葦呼ん家と、本当に違うなぁ。手入れが行き届いてないっていうか……大家さん、女の人じゃないのかなぁ)
不意打ちしてくる向かい風に引き腰になりながら、きょろきょろしたり目を見張ったりしているうちに、麻祈が立ち止まった。ドアの枚数はひと階層につき五つ―――その中央の、みっつ目の部屋だ。三〇三号室。
彼は腰元にあるジーンズのポケットから鎖を手繰ると、引きずり出した鍵の中からひとつを使ってドアを解錠した。残りの鍵みっつと一緒くたに握り込むと、またポケットへと無造作に突っ込む。
(なんの鍵なんだろ。よっつも)
麻祈からバトンタッチされたドアノブを保持しつつ、もう片手はドアのへりにかけて押さえながら、紫乃は小首を傾げた。形状からして、自動車の電子キーではないし、かといって自転車のそれように小ぶりでもない。あるとすれば、自動車のメインキーと、実家の玄関と、このドアの鍵と、―――?
矢先だった。ぱっと、目の前が明るくなる。麻祈が玄関の電気を点けたのだ。
て言うか、玄関兼廊下の電気を点けたのだ。ただ一本の、小ぶりな蛍光灯を。
ただそれだけで照らし出せる空間に、紫乃は絶句した。とりあえず、肉体的には。
心の中では、正直な感想を言ってしまっていた。
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