.いや、跳ぶような余力なく、よろよろと立ち止まりかかるのを、どうにか彼の前まで引きのばして。
傘を抱きしめているせいで、押さえつけられた胸と下腹が上手く動かない……その傘を片手に移して、彼に差し出す。もうひとつの手で震える膝を押さえつけながら、紫乃は唇を噛んだ―――そこだって、震えてしまっていた。それは、膝につられてそうなってしまったのでもなければ、雨に濡れて寒かったからでもなかった。
だからこそ見られたくない。見られるかもしれないなら、せめて誤魔化したい。喋り出すしかなかった。項垂れたまま、荒らげた肩を鞴(ふいご)にするように、必死に言葉を紡ぎ出す。
「濡れ……るから……か、返し―――」
プふー。
聞こえたのは、そんな音。
プラスチックで出来た、子どものラッパの音だと思えた。それが、場違い過ぎた。呆気に取られて、真正面を振り仰ぐ。
無論のこと麻祈は、そのような玩具など持っていない。鳴ったのは、彼の口許だ……噴飯したことが如実に分かってしまうくらい、笑いの余韻に震えていた。否。
笑いの衝動に負けて、笑い出した。
最初は小さく、そこからとめどなく大きく。それはもう大笑いだった。その証拠に、口を隠していた手が、今はおなかの上だ。紫乃の手だって、走っている最中はわき腹にあててあったけれど。
そうだ。やや前屈みで、横腹の痛みは手を当てることで押さえ込んで。息を切らしながら大声を上げ、赤い顔の中で歯も舌も赤裸々に剥きながら、細めた目に涙を浮かべて、きっと自分だって走っていた。
だから、そうしている彼から、目が離せない。
ひとしきり笑い終えた時も。
紫乃を見て、また笑いかけた時も。
思わず、声を上げてしまっていた。あまりのことに呆気に取られていただけで、馬鹿みたいに見とれていたのではないと、自分を丸めこむ建前が欲しかった。
「な、なんで笑うんですか!?」
「だって」
と、彼が言う。言うついでに、はにかむ。
「ついてくるから」
言われた理屈は、よく分からない。
分かっていたのは、別のことだ。笑われた自分は、恥ずかしい。笑っている彼を見ているのは、気恥ずかしい。だがしかし、ここで恥入ってしまっては、声が詰まる……そして会話は終わり、この全部が終わる。終わるなんて。
途端に、恥が怒りに変わった。
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