「うあひどっ―――また、一体これはどうしたんです? 用水路にでも落ちましたか?」
落ちたことにしてしまえば、笑ってくれたりするかなとか。
それ以上に、興味や関心を引ける言い回しはないかなとか。
そんな邪な思いつきは、思いついただけで終わった。ばれない嘘を即座に取り出せるような器用など自分に期待するべくもないし、なによりもう黙っていられそうにない。麻祈と話せる。自分が話せる。
そこからボロが出るかも分からないのに。
彼を正視できないまま、俯きがちに、紫乃は小声を震わせた。
「……いえあの、ついさっきまでバケツをひっくり返したみたいなゲリラ豪雨が……」
その時だった。首元に、風を感じる。風を帯びた指だと分かる。紫乃のこめかみあたりの髪をひと束すくい上げて、麻祈がそこに顔を寄せていた。
「―――本当だ。いい香りしかしない」
そして、やや屈めていた上体を戻す。手も下げられた。下げられた?
下げられる前は、どこにあった?
彼の顔はどこにあった?
その唇で何と言った? ―――
声が聞こえる。
「ってか、どうしてこんなところに?」
(そうじゃなくて)
「こんな季節ですが、いくらなんでも風邪を引きますよ」
(そうじゃなくて)
「傘は?」
(そうじゃなくて)
「坂田さん?」
タン! と傘の尖端で、彼が地面を突いた。
その仕草が苛立ちの代弁であることを察して、紫乃ははっと我に返った。ぶんぶかと首と手を横振りして、今さっきまでの妙な感覚を振り払う。正確には、振り払って、無かったことにしたかった。自分は正気だ……おかしいところなど何もないのだ。その証明に、ほら、ちゃんと返事だって出来る―――
「あの。大丈夫です。傘ないですけど。家族に連絡したら、きっと誰か迎えに来てくれるから……」
「それは良かった。何分ほどかかるんです?」
「あ」
分数の問題以前に、濡れ方の深刻さという難題を忘れていた。
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