.坂田のぎょっとした反応に、遠慮ゆえの延長戦の気配を嗅ぎ取る。長引かせたくない。麻祈は外出用のあれこれを衣服の定位置に再装填し終えるまでに、出し惜しみせず切り札を使うことに決めた。
―――まずは、下手(したて)からの正論を。
「男として、俺が、女性をこんなむさくるしいところに長居させるなんて出来ないだけです。医師としても、雨に降られたままの状態は見過ごせません。それにお互い、社会人として、明日も仕事がある身でしょう? どれをとっても、早く帰宅して休むにこしたことはありませんって」
―――もれなく、心から純真な風に述べながら。
「ね? どうか俺の我が儘を聞いてもらえないですか? 坂田さん」
―――極めつけに、それはもうおっとりと、ほほ笑みかける。
妹が麻祈を天性のスケコマシと確言し“詐欺師のほくそ笑み”と名付けたこの手管は、激発した暴力ジジイでさえ誑(たら)し込んだ実力を持っている。さすがに晩年こそ丸め込まれているのではないかと祖父は疑い出していたが、それでも連戦連勝記録を守り抜いた実績は頑健だ。ましてや坂田は、頑固で傲岸な巌を思わせる老人ではないのだから、分はこちらにあると見ていい。
数秒も格闘したようだが、坂田は結局、しゅんと反駁を呑んで頷いた。蚊の鳴くような声がする。
「なにからなにまで……お世話になります……」
「とんでもない」
またひとつの勝ち星を陰ながら喝采しつつ、麻祈はワンルームから玄関に出た。
坂田が部屋の電気を消してくれる間に運動靴を履いて、三角折りのスーパー袋をまたひとつ、電子レンジ横の小箱から取り上げる。それを広げて、もう片手で坂田の靴を床からつまみ上げた。その先っぽから、水滴が落ちていく―――靴の足型に残された、小さい水たまりへと。思った通りだ。
麻祈は靴を入れたスーパー袋を、すぐそこに立っている坂田に差し出した。のだが、どうにも彼女が目を白黒させたまま受け取ってくれないので、袋を彼女の臍の前から胸元までぶらんと吊り上げて、促す。
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