.彼女は実際、天を仰ぐようにびくっとエビぞりにした身体を反転させてきたのだが、勢いに振り回された自分の肩がけ鞄に尻を叩かれたことで一層に度肝を抜かれたらしい。ばたばた周囲を振り返って、通り魔を見つけ出そうと躍起になっている。日本人の顔を覚えるのは苦手な麻祈だが……容姿のみならず、この雰囲気。はぐれ日本人旅行者。間違いなく坂田だ。
(どうにも、てんてこ舞いなとこばっかり見てる気がするけど……)
なんとはなしに後ろ暗くなるが、危急の問題は他にある。麻祈は、ぎょっと息を呑んだ。
「うあひどっ―――また、一体これはどうしたんです? 用水路にでも落ちましたか?」
彼女に近寄るにつれて露わになっていく惨状に、重ねて目を見張る。正真正銘、坂田はずぶ濡れだった。服だけでなく、髪の毛も、雑巾絞りするだけ水が出るに違いない……実際、今も黒髪の房からたらたらと、雫が襟元に滴っている。服は裾や端っこから握ったり解いたりしてみたようで、そういった皺がブラウスやスカートに散見されたが、焼け石に水だったのも一目瞭然だ。なにせ、頭部から毎秒保水されているのだし。
「……いえあの、ついさっきまでバケツをひっくり返したみたいなゲリラ豪雨が……」
なんだかぼそぼそ言ってくるが、聞いている場合ではない。坂田の頭に鼻先を寄せて、指先ですくい上げた髪束を確かめる。ヘドロなどの付着物は無い。芳香も、恐らくはシャンプーの残り香と思われる清潔なものだった。
「本当だ。いい香りしかしない」
と同時、自分の慌てっぷりに、失笑してしまう。整備された日本の用水路では腐るほどヘドロが溜まることはなかろうし、仮令(たとい)そんなところに落ちたところで伝染病に脅かされる見込みは低い。幼い頃、たかをくくって放置していたところ、下痢と脱水と脱肛で死にかけた麻祈とは、時代も場所も違う。
麻祈は坂田から退かせた手を、自分の傘に添えた。嫌な思い出をシャットダウンするために、口早に畳み掛ける。
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