「あっ麻祈さん!?」
落っことしそうになって反射的に握るしかなかった傘と、トンズラをこいた麻祈を交互に見てくる坂田を置き去りにして、一目散に走っていく。
走るのなど好きではない―――早足だからか勘違いされやすいが、麻祈は長距離走をすると無理が来る身体だし、駆けたところで鈍足だ―――が、自宅のアパートメントは目と鼻の先である。小雨となっている今なら、水たまりをもれなく踏破でもしない限りぐしょ濡れにはならないし、仮にそうしたところで坂田ほどまで濡れやしないだろう。だからこそ、坂田をこれ以上の雨ざらしにするのは忍びなかった。自分は、肘笠雨にはそれらしく、肘を笠にしてもやり過ごせる。そう天秤にかけたゆえの、こうした結論だった。
のだが。
「麻祈さん! 駄目です! 濡れますって! 返します! 傘! 返しますから!」
坂田が追いかけてくる。
声が追いかけてくる。だけでなく、麻祈の数倍はけたたましい物音を立てながら、彼女そのものまでもが追いかけてくる。何度か捲こうと無駄に角を曲がってみたりしたのだが、まるで麻祈の行き先など分かっているかのようにアパートメントまでの最短距離を突き進んでいるようで、結局は遠回りした分を追いつかれた。ついに、すぐ背後に現れる。わけが分からない。わけが分からない―――のだけれど、むしろ、それは……
(俺の方だ―――)
そう思う。
計画がおじゃんになったのだ。肩越しに振り返ると、坂田は閉じたままの傘を胸倉に抱き込んで、鞭打たれる競走馬のごとく肩掛け鞄をばしばし乱舞させながら、こちらに追いつこうと懸命に走っている……いっそわざとではないかと疑えるほどの高確率で、水たまりを踏み抜きながら。追走するのに一心不乱で、彼女自身はそれに気づきもしていない。となると、単に計画が頓挫するより損をした。坂田は一層に雨水にまみれて、麻祈もまた濡れてしまったのだから。それなのに。
(悪くない)
そんな気分だ。
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