.その階の、廊下に出る。向かって左手側に個室が連なっているのだが、右手側は柵一枚向こうが下界だ。砂利を噛んだ男物の運動靴が無遠慮に立てる擦過音も、体重を吸った女物の靴の踵が遠慮がちにコンクリートを穿つ打突音も、反響する間もなく風にぶっ飛ばされた。ろくな遮蔽もなされておらず、遮蔽物となるような高層建築さえ周囲にろくにない単身用アパートメントに吹き付ける突風は、有り体に言って容赦がない。顧みると、坂田は目をまん丸にして中腰になっている。おもしろい格好だが、数日前に飛んできた病葉(わくらば)に目つぶしされた自分の方が、もっとへんてこな風だったろう。
膨れかけた笑いを胸中に押し込めて、麻祈はたどり着いた三〇三号室を解錠した。
ドアを開ける。片手にまとめたキーチェーンを、よっつの鍵もろともジーンズのポケットに押し込みながら―――こうするたび実家の裏口の合い鍵はもういい加減に外そうと思い出すのだが、やはり今日ももう忘れて―――、玄関先から室内を目線で窺う。
無人の玄関は、背後の外灯から差し込んだ光に白々と照らされて、外気より寒々しい室温を錯覚させた。玄関、そして奥へ続く廊下。電子レンジや洗剤を乗っけた下駄箱から、洗濯機・ミニキッチンが廊下沿いに並んでいる。その反対沿いには、風呂場に便所に洗面化粧台だ。見た限り、そのどこにも害虫の姿は見あたらない。
麻祈は玄関に入って、電灯のスイッチを入れた。そうすると、見慣れた我が家の無事が、よりはっきりする。たたきにて屈身し、運動靴を脱ぐついでに習性でドアを閉めかけて、ドアを押さえてくれている坂田を思い出した。
壁に傘を立て懸けてから、廊下に上がり、下駄箱に靴を放り込む。いつも内履きにしているスリッパをよけて、麻祈はドアストッパーと化している坂田に呼び掛けた。
「さ。どうぞ。一応、ドアを閉めたら、施錠をお願いできますか?」
玄関に入った坂田は、ドアに備え付けられている鍵だけでなく、チェーンロックまでしっかりとかけた。風が途切れたことでようやっと一息つけたらしく、ほっと肩で呼吸して―――
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