.ふと、虚空へ目を漂わせた。呟いてくる。
「セッケンのにおい……」
「ああ。先日、そこの洗面台に新品を出したからでしょうね」
応えると、坂田はさっと俯いた。我知らずの独り言だったらしい。
応答してしまったこちらも気まずく苦笑せざるを得ないが、その視線の方向は、正直ありがたい―――断っておくが侵犯性が高いものがそこらへんに放り出してあるわけでは決してないし、まずもって隠し持ってさえいないが、それでもだ―――麻祈は、彼女にしばらくそのままでいるよう伝えて、ワンルームに続く奥のドアを開けた。なんの変哲もない私室から、洗濯済みタオルをあらかた抱え出す。玄関のたたきでは、うなじの角度までそのままに、坂田がじっとしていた。
(え。俺、そんなに強く言ったっけ?)
前科が頭をよぎる―――最後のそれは、「幼稚園児の砂場か」とひとりごちた瞬間に学級崩壊していた講義が凍てついた大学時代の記憶だった。あの修羅場から、とにかく喋り方もボリュームも弱めを心がけてきたつもりなのだが。
ばつが悪い思いで、麻祈は坂田に近づいた。
彼女の警戒を解くべく、腸骨の高さを相手に合わせるように膝を曲げ、目線を合わせる。上から、のぞき込むようにするのは御法度だ。猛禽であっても四足獣であっても、肉食動物は捕食時に上空からのアタック姿勢を取るので、見下ろしてくる相手は本能的に敵と見なされる……そんな学問的根拠を准教授は熱弁していたが、麻祈としては、でかい奴はこわいってだけのことに自然界の弱肉強食の摂理から語り出さねば気が済まない准教授の脳構造にこそ疑問が残った。まあそれはいいとして。
にこやかすぎない表情で、ゆっくりと動き、はっきりと伝える―――なんとなく小児科に行った時のことを思い出しながら、麻祈は坂田にタオルを一枚だけ渡した。残りのタオルは、下駄箱に置かれた電子レンジの上に積んでおく。
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