「あ」
麻祈が、声を上げた。まるでそれが動作の代金だったかのように、ふっつりと歩みを断つ。
こんな自分の所作が、なにか悪い方にでも働いたのだろうか? 心底それを疑るでもないが、それでも怖じ気づいた紫乃は、慌てふためきながら麻祈の真横に戻った。彼はなにやら、小道から大通りに出るきわのところで、目を丸くしている。それを、尋ねるしかない。
「え? ど、どうしたんです?」
「坂田紫乃さん」
いきなりフルネームで呼ばれた。
それよりも―――
.
(わたしは麻祈さんの苗字忘れちゃってるのに!)
己の無礼こそ思い知って、紫乃は固まった。
だらだらとあぶら汗が出てくるのを予期し、それを徹底的に無視するべく力んでいるうちに、麻祈が疑問そうに首をひねる。
「―――ですよね。違いますか?」
「い、いえ滅相もない! 坂田です! はい」
「佐藤葦呼の友人の?」
「はい。ええ。そうです。はい」
「ああ」
納得したように……そして、納得したことに、思うところでもあったらしい。右の鬢(びん)を指先で掻き混ぜつつ、麻祈が非礼を詫びる愁眉を軽く寄せながら、辞儀をしてくる。
「これはこれは。なんと言うか―――すいませんでした。佐藤から事前にあなたのことを聞いていたのに、今の今まで失念していて」
「いえあの、どんでもないです。本当に」
なにを口走っているのか、自分自身、分からなかった。葦呼が紫乃のことをどのように彼に説明したものか、それを知りたい気もしたが、こんな土壇場になって思い出すような存在としてしか認知されていないのなら、さぞやインパクトに欠けた文言だったに違いない……実像として自分はインパクトに欠けているのだけれど。そんな自分が今更になって彼の気を揉ませてしまった、それにさえ及び腰となってしまい、紫乃はぺこぺこと背を折り恐縮した。
そして、それを終えるなら、目的を取り戻すしかない。駅へ再度、ふたりで向かい出す。
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