. 押しのけたドアの上に付いたカウベルの音色が、従業員の送別の声と重なった。後者へ律儀にお礼している彼女を、ついうっかり異国の古癖(ふるぐせ)でドアを保持したまま待ちながら―――まあ大学時代のようにホストだキザだエロホストだとからかってくる目撃者は存在しなかったから問題視の範疇に無かろう―――、新鮮な外気の冷たさをたっぷりと舐(ねぶ)る。爽快だった。純粋に。
待ち終えて、麻祈は外に出た。ドアをバトンタッチしたその女性に、それでは、と会釈して帰路につく。
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雨は降っていなかった。まあ、ちらつくたびに闇を溶かすネオンこそ、夜にとっては雨のようなものだろう―――地面にとっての雨と同じく。溶かし、またたき、鬱陶しいこともあるが、それでも人間にはそれが必要だ……もっとも地面の方は、邪魔者とされ蓋(おお)われて久しいが。砕けたアスファルトをざらりと靴底で噛み締めて、そんなことを考える。
(いかん。思考回路が詩人だ。今更になって酔ってきてやがるな俺。くっそ。ビールなんて、飲み慣れないから加減が計れん。まさか、明日まで残ったりしないだろうな)
毒ついて、それを振り払うべく、歩速を上げる。のだが。
ふと、後追いされている気配に―――正確には、その気配の稚拙さと蹌踉(そうろう)加減に引っかかって、麻祈はつま先を進めるテンポを、今までになく落とした。
肩越しに背後を見やれば、あの、はぐれ日本人観光者である。彼女は障害物を避けながら麻祈のくるぶしを追いかけるのに必死なようで、麻祈が振り返っていることにも気づいておらず、変わらぬ乱れ調子でスカートと外套のすそを揺らしていた。向かう方向が一緒なだけかと勘繰るが、それとなく歩調を変えてみても、彼女とのつかず離れずの間合いは変わらい。やはり、ついてきている。
(―――ああ。それもあってか。はぐれ日本人旅行者って思えたのは)
今更、感想が腑に落ちた。童顔。小足で小股。身奇麗で小奇麗。長くも短くもない丈をした髪に、小柄でも大柄でもない体格と、白目の目立たないやや俯きがちの角度を主体とした目の動き。総じてハニワっぽい。つまり、投げられたところで落ちれば割れるだけの―――どう扱われても最初から最後まで人畜無害なままでいてくれそうな、つけ狙いやすい獲物の印象を受ける。犯罪願望がない自分の審美眼からしても。
となればやはり、確かめずにおれない。
麻祈は、歩行を諦めた。だけでなく、振り返る。今度は、身体ごと。
「あの。帰り。どうなさるんですか? 僭越かと思いますが」
つんのめる様にして動きを止めた彼女は、ばっと麻祈へと勿怪(もっけ)顔を上げた。そして周囲を見回して、自分が話しかけられているようだと理解すると、その遅れを挽回しようとでもするかのようにばたばたと近寄ってきて、口早に呟いてくる。
「ええとその、メールで連絡が取れてますから、家族が車で迎えに来てくれます。駅前のロータリーまで。多分、お姉ちゃんが」
「そうですか。でしたら、俺と同じ行き先です」
そう口にしながら麻祈は、自宅までの近道でなく、できるだけ照明が設置されている駅までの順路へと、脳裏の地図を切り替えた。
持ちかける。
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