. 彼は紫乃の様子に、現場へと取り残される一般人の危機感だけを、医師として嗅ぎ取ったらしい。一層に、声音が穏やかにゆるんだ。
「ええ。そうでしょうとも。急変しないか……なにかあるかもと、さぞかし不安でしょう。だったら、また電話を掛けてください」
「また、」
信じられず、紫乃は言葉を噛んだ。
「掛けても、いいんですか?」
「もちろん。あなたさえよければ、いくらでも」
そして、麻祈が続ける。
「ですから、早急に救急車の手配をお願いします。坂田さんが患者に付き添って救急車に乗る場合は、財布を忘れずに。救急車は病院に運んでくれるだけで、自宅まで送り返してくれるのは、有料のタクシーです」
「―――はい」
頷く。
決心がついた。
.
「それじゃ、わたし……行ってきます!」
「はい。よろしく願いします」
紫乃は、電話を切った。
己の腹の前、床に寝そべる上野を見る。あとは紫乃しかいない。ここには紫乃しかいない。こんな自分しかいない。
そうだ。自分の平凡さは身に沁みている。取るに足りない、ありふれた個人だと分かっている。
特殊な才能も傑出した能力も、それらをうっかり手に入れる幸運さえ備わっていない。運命の女神どころか上野だって、選ぶことさえ出来たなら、紫乃のことなど思いつきもせず、別の誰かを救助者に選んだろう。より有能で、より達者で、より機転が利く―――麻祈のような誰かを。
(そう。わたしは、こんなのでしかないから、)
麻祈に頼るしかなかったのだ。自分では、なにもできなかったから。そうすることしかできなかった。
それこそを、彼は認めた。
辛い状況に踏みとどまっていること、不安をおして行動すること、―――ありふれた凡庸さを言い訳に責任を放棄しなかったこと。それを理解し、認めてくれた。頑張っているんですねと言ってくれた。
(そうだ。わたし、頑張れる)
紫乃は、それを思った。
(頑張るんだ。頑張れるんだから。そんなの誰でも出来ることだけど。それでも麻祈さんは、わたししかいないって言ってくれた)
才能。能力。幸運。不可能なことを成し得るのは、確かにそれがないと無理かもしれない。不可能は不可能だ。とんでもなく稀有な、いくらかの奇跡か慈悲が必要だ。
だとしても、可能なことを成し得るのには、そんなことなど関係ない。
(だから、それをやるんだ!)
紫乃は、携帯電話を握る手に、ぐっと力を取り戻した。救急車を呼ぶために、画面を持ち上げ―――
その液晶機器が、自ら跳ねた。
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