. 自宅に戻ってからも携帯電話の着信音を気にかけて過ごしたが、メールのものばかりで通話のそれはない。とすると、その後、おおよそ上手くいったと思っていいだろう。自宅にて、風呂桶に湯が満ちるまでの時間をベッドの上で待ちながら、麻祈はそう判断した。
(救急車を受け入れている病院で、この時期のあの時間帯なら、おしなべて熟達者―――エキスパートかプロフェッショナルかスペシャリストかまでは知るところでは無いにせよ―――が揃ってる。だったら、さほど危ぶまれる状況でもないさ。まあ坂田さん自身は一般人だから、すんなりと納得もいかないだろうけど……)
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それを思うとさすがに現状を探りたくなったが、自分のために彼女を煩わせるわけには行かない。彼女には、先程の折、必要ならばいつでも電話するよう伝えてある。つまり、電話が無いのにこちらからコールするのは不必要だ。それは過ちであり、ならば犯すべきではない。
ベッドのマットレスの上、背中から壁によしかかって、立てた両膝に両肘をつけ、合わせた両掌を鼻筋にあてがっている。いつもの待ちぼうけ姿勢―――「なに自前チョップしてんの?」とは佐藤の目撃談だが―――で考察を終え、麻祈はぼんやり目を開けた。自室。壁際の冷蔵庫。本棚と洗濯物入れを兼用したボックス。一本脚のテーブルの上にノートパソコンとメモ用紙。テーブルの下の一本脚まわりには一升瓶とウイスキーボトル。椅子の背に下がるのは、くたびれたタオル。見上げれば蛍光灯。見下ろせば、ベッド横のサイドテーブルに携帯電話と財布と腕時計。針が示した時刻は夕刻―――その通り、見慣れた陽射角が、見慣れた洋間に、お定まりの影絵を定時映写していた。
両手の親指と人差し指で触れていた顎先と鼻の下がじわりと痛んで、出掛けに髭を剃ったことを思い出す。もともと肌質的に強くなく、体毛も目立たない方なので、インドアで過ごす休日は放置しておくのが常だった……と、そこに来て、今日は出かけたこと、ならびに小杉のことを忘れていたのを思い出す。メールの着信音も、いつしか、バスタブに溜まっていく湯の音響ほどにも気にならなくなっていた。慣れとは恐ろしい。
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