.ぽつんと座席に残されて、麻祈は身じろぎした。身じろぎだから、すぐに終わった。
それから数秒か、はたまた数分か―――ドリンクでも注文すべきだろうかとふと思いついて、カウンターに視線を振るのだが、そこにあったはずの老いさらばえた背中たちはとうに去り、もろとも店長と思しき老爺さえ影も形もなくなっている。さすがに、帽子に締め付けられた頭蓋が痛み出してきた。脱げやしないのだが。
思うに、皮肉に勘繰るには、これはネタが多すぎる。
「……席に着いて(Take your seats!)・よーい(Ready set!)・ドン(Go!)ってか? なおのこと、Ready!, Steady!, Go! の俺には釣り合わねーじゃん。はッハ(Ha-hah,)、笑えねー……―――」
悪い冗談は、悪感を紛らわせてくれるほど上出来でもなく、悪寒を錯覚させてくれるほど不出来でもなく、生半可に喉をくすぐって呼吸を重くする。己に賭けるのは諦めて、麻祈は外界に慰めを求めた。休日。昼下がり。喫茶店。カーテンは粗茶の出し殻色。暦年に渡って紫煙に愛でられた壁紙も、それとドングリの背比べ。木で造られた天井の送風機は本格派だが、ちんたらと回り続ける風貌は店内の様相と相まって、レコードと蓄音機よりも音割れしたラジオとくたびれたポスターを相棒にしてやった方がしっくりきそうだ―――
そして。カラン、とロックグラスの氷が崩れる音がする。
それは、せめてもの逃げ場を探した脳の倒錯だ。実際は、ドアにくくり付けられたカウベルの音色だ。来客を告げる鐘。そして二種類の足音と、佐藤の焦り声が駆け込んでくる。
「―――てる場合じゃない。急いで紫乃。華蘭の遅刻癖がどんだけ発揮されるかによるけど、まだ何分かは猶予が―――」
「あー!!」
びくりと、麻祈は座したまま背筋を跳ねさせた。それ自体は、佐藤のせりふをぶった斬った声量が特大だったので、吃驚したからだが―――
「―――そう、あんたが坂田シノさんだア」
との続きに、背筋どころか足元まで落ち着かなくなったのは、吃驚してのことではない。
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