. 小脇にした冊子に体温が移る頃、麻祈は約束の居酒屋へ到着した。いつも使っている禁煙席を予約したのは自分なので、待ち合わせ相手がどこにいるかも分かっている。ならばそこへ直行してよかったのだが―――店内にこもった人いきれに、外気以上の吐き気をもよおして、麻祈は思わず店の入り口で立ち止まった。そして梅雨のことまで連想し、こうして思い出してしまった。
(ああ。嫌だ嫌だ。めんどうくさい)
梅雨時は虫が湧く。のみならず、梅雨が終われば夏が来る……長袖でいるのが、最も辛い時期がやって来る。院内は、患者を慮った―――という名目兼、電気料金に優しい温度設定のクーラーが動いてはいるのだが、開放的なガラス張りが陽光熱まで受け入れるとあっては、まさしく焼け石に水だ。湿度の少ないところで生まれ育った麻祈には、日本本土・山陰地方の夏季はきつい。
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(……まあ、今迄やれたことなんだから、これからだって出来るだろ。先のこと考えたって意味ない。あー駄目だぞ俺。こら俺。YOLO(yow-low)! YOLO(yow-low)!)
今この時の楽しみを楽しむべし。率先して、麻祈は目先を転じた。手にする本の存在を思い出し、出来るだけ陽気な気分に拍車をかける。
店のレジまで入ると、予約客を確認した店員が、律儀に水先案内を願い出てくれた。それを承諾し、店内を進んでいく。通りすがる席のどれもが埋まる程度に、店は繁盛しているようだった……愚痴と説教を履き違えたサラリーマン、お互いの化粧の崩れ方ではない話題で盛り上がっている熟女三人組の手には口紅がべったりついたプラスチックコップ、あれやこれやあまりにアンバランスなナンパ男と地味女がふたりして覗き込んでいる雑誌には宝飾品。なんとなく、女は看護師じゃないかと麻祈には思えた。となると、悪徳商法のカモにされているのだろう。これから屑ダイヤの首飾りをン十万で買わされるのと引き換えに処女を捨てるのかもしれない。
とまれ、安さを売りにした大手チェーン店はその売り文句通り、料理どころか客層も空気感もチープなのが魅力だ。旨味の無い刺身など噛まずに喋り続けても構わないし、ぎりぎりまで薄められたアルコールなら何杯飲んだところで酔いつぶれることもない。まさしく、オタク話をしけこむのにもってこいの場所だった。ついでに、小杉からのメールも埒が明かないことだし。
と。
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