. 午後過ぎから急転直下に仕事が立て込んだので、麻祈が電子カルテの他職種記録に目を通し終える頃には、十九時を回る勢いだった。それから懸命に業務を終えて、自宅での食後の片づけを省くために院内購買のしなびた稲荷寿司と即席スープで夕食を済ませ、ついでに歯磨きもしてから帰宅する。その気になればシャワーを浴びていくことも可能だったのだが、以前やらかしたヘマを思い出すと、どうしても自宅で風呂に入りたかった。いい歳こいて、慣れないことに余裕をぶっこくものではない。
そして、それも済ませた二十一時過ぎ。麻祈は、濡れ頭にタオルを引っ被せたまま、自室の椅子に座った。背もたれが骨盤までの高さしかない痩身の折りたたみ椅子は、ぎしりとひと声の不満を一閃させると、いつも通りに彼の肢体を受け入れる。スリッパから両足を引き抜き、一升瓶やウイスキーボトルを蹴り飛ばさない動線で、脚線を組んで―――右の股関節は痛まなかった―――それをほどく。自前の占いは大吉と出た。縁起がいい。
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麻祈は、片手で髪とタオルを顔面から退かせながら、もう片手で目の前のテーブルにあるノートパソコンを起動した。彼が身に纏う長袖長ズボンのジャージーは錆びた鉄色をしていたが、光源がそのブラウザだけの室内では、部屋の内装もろとも熱帯魚の水槽を思わせる青に染まる。起動画面の発色が済むと、見慣れた無限回廊のツートンカラーイラストを背景に、とりとめないアイコンが散らばった。
冷蔵庫の中の先住民が頭をよぎるが、麻祈は結局、新品の封を切ることにした―――足元に持ってきていた紙袋の中から、片手で扱える華奢な瓶を、指で吊る。パソコンからの無機質な明かりに透かされて、瓶の硝子は一層に美しい蒼穹の色を湛(たた)えていた。
素手でそうしてもなんの問題もないのだが、いつものようにソムリエナイフで紙の封緘を断ってから、コルク栓を引き抜く。こぼれてきた芳醇な香りに、麻祈こそ笑みがこぼれた。直前に冷凍庫から出してきていたショットグラスに、小指の爪の丈あるかないかという僅かな水深を満たす。
瓶を足元から少し離れたところに立てて置き、麻祈はグラスを手に取った。口づける。たまらず、含む。文句なしに旨い。それを味わう。嚥下する。傾世美姫(けいせいびき)に顎先からみぞおちまでを指の腹で愛撫されたかのような熱と悦楽が、それなのに身の内から粘膜を甘く嬲る。ぞっとした。
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