. 名残惜しくも内なるどよめきが治まってのち、麻祈はグラスを卓上に戻した。と、その定位置に放置していたソムリエナイフのことを、そいつにグラスの底でノックしてから思い出す。そのまま二連打して相手をわきへ追いやり、グラスをいつものように落ち着けた。返す手で、パソコン横のメモ用紙の上から、携帯電話を取り上げる。ふたつ折りを開いて、小杉からの膨大な着信メールは見なかったことにしつつ着信履歴を辿り、そのひとつへとリダイヤルをかけた。
呼び出し音が長い。留守電に繋がったと思った。矢先、物音が切り替わる。
録音機能ではなく、そこに感じる人の気配へと、麻祈は話しかけた。
「もしもし。こんばんは。坂田さん」
「あ、さきさん?」
「―――ええ。麻祈です」
坂田の声の、まにまに頷く。
.
いきなり名前で呼ばれたのは意外だったが、坂田は佐藤の友人である。伝染していたのがアサキングとかいう変なあだ名じゃなったことが幸いなくらいだ。自分とて苗字で呼ばれるよりか、心情的に都合がいい。
かすれ声で、坂田が挨拶してきた。実際に頭を下げたのか、さわりと髪の流れる音が、彼女の声と同時にこちらの受話器に拾えた。
「こんばんは……」
「こんばんは。そして、お久しぶりです。こんなお時間ですが、今こうしてお電話しても、ご都合よろしかったでしょうか?」
「は、い」
どうにも反応が鈍い気がする。抑鬱的どうこう以前に、眠っていたところを起こしてしまったか? ありえるかもしれない。右手を頭のタオルから机上のボールペンへ移して、白いメモ用紙を探す。数式が書き散らかされたそれを払うと、無記入のものが現れた。中央にウツと書いて黒丸で囲み、そこから離れた箇所に、睡眠中? と記す。ネテタ? とすればいいものを、無自覚に、楽な英語が出ていた。書いてからそれに気付いたが、職場の電子カルテでもあるまいしと思えば直す気も起こらず、それと並行して行っていた会話へと注意を戻す。
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