「自分は医者の本懐として、」
―――自分の本質として、
「誰かの個人情報を、誰かに漏らしたりしません」
―――誰かを消耗してまで話していたいような、誰かなんて、いない。
「あなたを心配しています」
―――それは、まあ、真実だ。少なくとも、今まで口にしたどの言葉よりも、虚偽から外れている。鬱病が、どん底よりも浮き上がりかけの時期に自殺することが多いのは、統計的にも証(あか)されているのだから。
向こうの世界で、坂田が泣き出すのが聞こえた。
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女泣かせ。大学の時に、叩かれた陰口を思い出す。今の坂田とは異なる意味だが、それでも麻祈は失笑した……人でなしだと言われたことも、思い出してしまったからだ。
(そうだな。俺は、人でなしなんだろう)
だから、こうやって坂田に接することも出来るのだろう。佐藤でさえ、友としても医師としても介入は不要とした彼女へと。
相槌を挟み、時に促しつつも、麻祈はほぼ聞き役に徹しながら関連図を取り続けた。坂田が遭遇したイベントを慎重に整頓して、それに伴う情緒の浮き沈みを把握していく。ケーニヒスベルクを超える橋脚の魔窟が刻々と増改築を繰り返していくうちに、事態が見えてきた―――根幹は、先日の救急車の事件である。麻祈との電話を切った後、意識を取り戻した対象者から、坂田のしたこと成したことすべてが裏目に出ていると、有らん限りの痛罵をヒステリックに浴びせかけられたようだ。関連図のうち『坂田』の斜め上にある『ウエノ』『月経・前』の円かこみをペン先でつついて、『生活音stress(ストレス)』『鉄剤処方』『貧血』『健診時要精査指摘?』『失神?』と漢字やら仮名やら英単語やら節操無しにぶちまけられたフキダシに、ついに『PMS or PMDD?』と略語までが参入する。
(ま、違法薬物を使用した可能性を度外視するなら、の話ではあるけど。錯乱するレベルの月経前不機嫌障害(PMDD)ねえ……分掌としたら婦人科だけど、ちゃんと診てくれる病院なんて近隣にあんのかな? まーそっちはそっちで、これから治療してもらうしかないから)
だからこそ。今、この時は、こちらは坂田だ。
麻祈は改めて、デフュージングについて反芻しつつ、坂田に耳を傾けた―――デフュージングとは本来、境遇的な似たもの同士がその体験を共有することで、孤独な重責を和らげる手法である。分かっている。麻祈と坂田の間に、境遇上の接点など、ほぼ皆無に等しい。それは分かっていた……それこそ、こうやって話しているくらいしか、ふたりは接していない。
だからこそ、彼女のなにひとつまでも、無碍にしてはならない。
麻祈は坂田と触れ続ける。彼女が離れていける時まで。
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