.紫乃は、無人の門の中へと踏み込んだ。石畳を気取った風に並べてある苔むしたタイルを踏んで、前に一度くぐったきりの友人宅のドアまで進んでいく。駐車場は裏庭にあり、彼女の車が駐車されているのかは確認できなかった。そうして奥へと振った視線を前方に取り戻す前に、見覚えのある玄関に辿り着いてしまう。
ありふれたドアだ。目立たない鉄の板で、装飾の縁飾りから箔が剝げかけていて、錆も浮いていて、なにより当たり前だが外部と内部を遮断している。内側がどうなっているのか分からない。上野の時と同じだ。思えば、あの時から引き返せなくなった―――
(呼び鈴を押す前に、いったん『着いたよ』って葦呼にメールか電話した方がいいかな?)
ねじ込むように現実を思案する。が、それこそ返信が無かった時には呼び鈴を押すしかないし、返事があった時にだって内側から鍵を開けてもらう必要がある。となると、こうやってまごついているのも意味が無い。要は、逃げ口上が欲しいだけなのだ……先送りにできる言い訳が。
決心というほどでもないが、それでもなにかを蹴り離す様な思い切りをつけて、紫乃は呼び鈴を押した。
あっけなく、内側から鍵が外される音がする。ついで、ドアが押し開かれた。
「……立って動くのは大丈夫みたいだね」
紫乃がお愛想で言えたのは、それくらいだった。
実際、それが愛想だということは、葦呼当人が思い知っていたところだろう。独居用の賃貸住宅とは大概そういった造作なのか、玄関から奥へと短い廊下が伸びている……葦呼は玄関扉を押しのけながら、その壁にぐったりと凭れかかっていた。緑色のパジャマを着ているので、窓も無く電気もつけていない薄暗い廊下のすみにいられると、どことなく排水溝にへばりついた毬藻のように見える(毬藻は排水溝に流れないだろうし、ヘドロとまで思い切れないのは友情か同情か)。
葦呼が、ばさばさに乱れて膨らんだ髪の狭間から、ねっとりと底光りする視線を紫乃に向けてきた。土気色をしているのか、蒼白だからフローリングの茶色が色移りして土気色に見えているのか判断がつかない面の皮の中で、目と鼻と口が別々に震える―――笑おうとしたのだろう。うまいこと連動させられないらしく、それだけでも失敗しているのだが。
「よちよち歩きでとぼとぼと、ヨボヨボな有り様でありんすが……」
挙句に、ヘヘ、と吐息を付け足してくる。笑おうとしたはずなのだ―――との推論を保っている心証を削るほど不気味だが。
とりあえず、じゃっかん引き腰になりながらも、ツッコむしかない。
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