.ふっと麻祈が、顔を上げた。紫乃へではなく、部屋の出入り口へと。タペストリーを分けて、シノバが入室してくる。硝子製の水差しを片手に、もう片手にメニューらしき冊子を携えていた。どちらもひとつだけ。
(ひとつだけ? メニュー)
シノバは当然といった風に、紫乃の目前のランチョンマットの上に冊子を置くのだが。
そして、伏せてあった二人分のガラスコップを手前に寄せて上向かせると、水差しから丁寧に水を注ぐ。水差しからは、細い笹の葉が飛び出ていた。氷の塊がそれにまとわりついて、硝子の器の内側でころころと笑っている。ふと、水の帯びた冷気の中に、レモンの匂いを嗅いだ気がした……見る限り、レモンの欠片は見当たらないが。
ガラスコップをふたつとも両者の手元に揃えると、シノバはどことなくおどけた節回しで、麻祈へ一礼してみせた。
「さあ、どうぞ。御遠慮なさらず、お申し付けください」
言われて、彼が横目をくれる。その双眸は、ガラスコップを半分まで満たした冷や水を見ていた時には無かった、面白がるような微笑を滲ませていた。
「ご用聞きが早くありませんか?」
「飢えたお客様を見捨てて置けない性分なもので。ペットも名付け親に逢いたがっておりますし」
「やれやれ。あなたのベイビーは、親によく似て、まったくの甲斐性者だ」
「わたしに言わせれば、名付け親によく似て、目立たぬ頑固者です」
「そこがいいくせして」
「おっしゃるとおり」
そこで、シノバが礼を解いた。傾げていた上体を正すと、どこか好戦的なものを感じさせる目の色を誤魔化すように、伏し目がちに言ってくる。
「今年は例年にない気候の不安定さと雨量で、なかなかメニューに載せる算段が整いませんでした。お逢いになるでしょう? マイ・パンプキンに」
「もちろんです」
矢先だった。
麻祈が、こちらへと振り返る。
「坂田さんは? またあとで注文するのでよろしいですか?」
「え? あの? え?」
紫乃は、どもりながら硬直した。
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