.麻祈が向かったのは、さっき麻祈が歩を進めたのとは逆方向、入口の引き戸から入って右側の壁である。気付かなかったが、そこに掛けられたタペストリーの切れ込みから左右に開くと、奥には一室が広がっていた。
彼の後から、その部屋に入る。窓際に、ふたりがけのテーブル席がふたつ寄せられていて、シックなパーテーションで間仕切りがしてあった……必要に応じて取り払い、ふたつのテーブルをくっつけて、四人掛けの席にしたりすることもあるのだろう。明かりは、天井の蛍光灯よりも、テーブルの上に並べられたショットグラスの中の蝋燭の方が、存在感が大きい。皺もシミも無いランチョンマットが、夜闇にゆらめく火影を投影していた。ランチョンマットの横には、磨き上げられたガラスコップが伏せられており、使い捨てのおしぼりと箸箱らしきものが添えられていた。
「それじゃ、掛けましょうか」
【Reserved】と書かれた折り紙が立てられていない方のテーブルを示して、麻祈が紫乃を促した。部屋のすみっこが落ち着く習性で、部屋の中央のパーテーションを背にした席でなく、壁を背後にした席を選ぶ。右手側が窓だ。カゴバッグを椅子の下にしまってから外を見ると、紫乃らが歩いてきた道路が見えた。ヘッドライトを伸ばした自家用車が、とろとろとそこを行く。見る間に、窓明かりを燈した家並みに吸い込まれて消えてしまった。
その風景と入れ違うように、麻祈が視界の正面に現れる。彼は、紫乃の前の椅子に掛けると、テーブルの上で軽く指を組んだ。落ち着かなかったのか、それを腹の上に移して、ようやくひと息つく。人心地ついた拍子に伏せてしまった目蓋のふちで、睫毛でもなければ陰影でもない黒ずみが澱んでいた。疲れだ。
(うわぁ。本当に、心底くたくたっぽい……)
紫乃は息を殺して、それとなく麻祈を見ていた。
(葦呼から、勤務医? 臨床医? が、大変なことは聞いてたつもりだったけど、葦呼ってあっけらかんとざっくばらんに他人事っぽく喋るから、深刻さも陽気さも現実感に欠けるんだよね。今の無言の麻祈さんの方が、どんな葦呼の話より、よっぽど流暢だよ。どうしよう……わたしと麻祈さんの仲立ちしてくれる話題なんて、葦呼のことしかないのに、そうなったら嫌でも仕事の話になりそう……)
と。
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